学校の設立

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「学制」頒布後、埼玉県は、時を移さず学校設立にとりかかった。五年十一月、旧来の私家塾を禁止し、まず各行政区ごとに本校と呼ぶ公立学校の設立を布達した。

 また、六年二月の区戸長会議の席上学校設立を懇諭された戸長は、村人を促して鋭意努力することになる。

 他方、県の教育行政を司どる改正局からは県吏が管下を巡廻し、学校設立を強力に指導した。当時本県の一県属であった清浦圭吾(第二十三代内閣総理大臣、大正十三年一月~六月)は、市域村々を巡廻しており、西方村の御用留によると、

  先般御達ニ相成候分校開校之義、過日清浦様御廻村ニ而被仰付、右村々之内未タ開校ニ不相成分ハ片時も不捨置、怱々開校被成度、若緩怠相成候而者如何之御沙汰も可被有哉も難計候間、此段御達候間、怱々順達留村より返却可被成候、以上

   明治六年六月六日 [(第二区)(挿入)]戸長 井出庸造

なる廻文を七左衛門村以下九ヵ村へ出している。その指導の徹底さが窺える。

 以上のような県の学校設立素案、仮規則、指導により、戸長を中心として、「学制」に準拠した学校の設立が推進された。明治六年五月、番号を付した学校の呼称は紛らわしいというので村名を付すよう改正されたが、逆にこの史料からその際市域の学校の設立状況をみると、第15表の如くそのほとんどが設立されている。しかし、校舎は、不明の越ヶ谷学校を除いて全てが寺院か廃寺を利用している。このうち、四町野村迎摂院の大沢学校(啓明学校)は、第二区の本校であった。

 なお、表中の同番号は、県が示した当面の設立計画案の学校数を上回ったため支校としたもので、市域の学校設立が順調に進んでいたことが窺える。

第15表 明治六年の番号を冠した学校と村名を冠した学校の対比
中学 番号学校 学校名 行政区
第十二番中学区 市域内 第六十五番小学校 袋山学校 第二区
第六十六番小学校 増林学校
第六十七番小学校 大沢学校
第六十八番小学校 越ヶ谷学校
第六十九番小学校 西新井学校
第六十九番支校 荻島学校
第七十番小学校 四丁野学校
第七十番支校 越巻学校
第七十一番小学校 育幼学校
第七十二番小学校 進文学校
第七十三番小学校 瓦曾根学校
第七十三番支校 増森学校
第七十三番支校 小林学校
第七十四番小学校 蒲生学校
第七十六番小学校 見田方学校 第一区
第七十七番小学校 千疋学校
市域外 第十六番小学校 松伏学校 第四区
第七十五番小学校 青柳学校
第十三番中学区 市域外 第七番小学校 高曾根学校 第二十区