六年二月、県が示した学校設立案によると、市域の見田方・東方・南百の三ヵ村は第一区(行政区)に属し、第七十六番見田方学校が設立される予定であった。
ところが、この学区域には、前にもふれたように見田方村名主で儒者の中村培根が開く培根塾が既に多くの生徒を集めていた。そこで、培根が当時の生徒五〇余名を率いて、六年四月、東方村二二八二番地の観音寺に移り、大沢学校(本校)の分校となり、見田方学校と称することとなった。しかし、培根翁を慕う村人は、これを培根学校と呼び、後に正式校名となったのである。なお、培根学校が仮学校とした観音寺の平面図を見ると左の図のようになり、中央に仏間があり、教室(三)、教員室、湯呑所があり便所は戸外に二ヵ所となっている。敷地面積は約一六〇m2(四八・五坪)で、教室はあわせて約六七m2(四十・五畳)であった(「大相模尋常小学校沿革誌」)。
なお、その後の九年における市域の学校を一覧表で示せば第16表のとおりである。
在地は旧町村 | 学区番号 | 学校名 | 通学区(字名) | 生徒 | 教員 | 校舎 | 備考(沿革、その他) | |||
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男 | 女 | 男 | 女 | |||||||
市域 | 桜井 | 12―89 | 平方 | 平方 大泊 上間久里 下間久里 | 四一 | 九 | 三 | 林西寺 | 六年設立 | |
新方 | 12―90 | 船渡 | 船渡 大杉 大松 | 三一 | 一 | 二 | 竜正寺 | 七年設立 | ||
増林 | 12―54 | 増林 | 増林 | 七一 | 四〇 | 一 | 林泉寺 | 六年五月一日設立 | ||
12―56 | 増森 | 増森 中島 | 七〇 | 一〇 | 二 | 真正寺 | 六年設立 | |||
12―57 | 小林 | 東小林 | 三三 | 一一 | 二 | 東福寺 | 〃 | |||
大袋 | 12―126 | 大竹 | 大竹 恩間 大道 三野宮 | 九一 | 七 | 三 | 東養寺 | 六年四月一日設置 | ||
12―52 | 袋山 | 袋山 弥十郎 大里 | 三五 | 一二 | 二 | 持福院 | 六年設立 | |||
荻島 | 12―50 | 荻島 | 南荻島 神明下 | 六八 | 一〇 | 二 | 玉泉院 | 〃 | ||
12―47 | 西新井 | 西新井 後谷 長島 | 四四 | 一四 | 一 | 西教院 | 〃 | |||
出羽 | 12―46 | 越巻 | 越巻 | 一六 | 一〇 | 一 | 寺院 | 六年開設 | ||
12―44 | 育幼 | 七左衛門 | 五五 | 一八 | 二 | 廃寺(真福寺) | 〃 | |||
12―49 | 啓明 | 四丁野 大沢町 大房 大林 | 一五〇 | 三八 | 六 | 一 | 迎摂院 | 六年五月四丁野学校開設、九年十二月大沢町啓明学校(六年設立、照光院仮用)を迎摂院に移転、合併して啓明学校となる。 | ||
大相模 | 12―28 | 千疋 | 千疋 四条 | 四五 | 三 | ? | 東養寺 | 六年設立(文部省年報九年には記載されていないが郡村誌、報告書により記す。) | ||
別府 | 別府 | 二四 | 一九 | 二 | 寺院 | 六年設立(八年以前の文部省年報には記されていないが、その後の文部省年報、県文書により記す。) | ||||
12―26 | 培根 | 東方 見田方 南百 | 七六 | 二九 | 三 | 観音寺 | 六年四月十五日開校 | |||
12―40 | 進文 | 西方 | 三八 | 一七 | 二 | 安養院 | 六年四月十五日開校 | |||
蒲生 | 12―74 | 蒲生 | 蒲生 登戸 | 五九 | 一六 | 三 | 清蔵院本堂 | 六年七月二十日開設 | ||
12―38 | 瓦曾根 | 瓦曾根 | 五七 | 一三 | 一 | 照蓮院 | 六年設立 | |||
越ヶ谷 | 12―68 | 越ヶ谷 | 越ヶ谷宿 花田 | 一〇八 | 五八 | ? | ? | 六年設立、九年の文部省年報には記されていないが郡村誌に記載されているのでそれによった。 | ||
市外 | 松伏領 | 12―84 | 松伏 | 松伏 田島 向畑 北川崎 大吉 | 一一五 | 七 | 六 | 寺院 | 六年設立 | |
新和 | 11―102 | 高曾根 | 高曾根 小曾川 砂原 野島 | 一〇一 | 一三 | 三 | 一 | 廃寺 | 六年四月十日設置 | |
青柳 | 12―16 | 南青柳 | 一〇九 | 二九 | 五 | 三覚院 | 六年一月十五日設置 |