小学校は六歳から一三歳の男女生徒を上下二等に分けて教育するもので、六歳から九歳までが下等小学校、一〇歳から一三歳までが上等小学校であった。そして、上下等とも八級に分かれ、八級から始めて六ヵ月ごとに進級していくことになっていた。
埼玉県では七年二月「小学教則」を定めて各級の教育内容を規定した。
また、この時期に使用した教科書についてみると、初期には福沢諭吉の「学問のすすめ」をはじめ文明開化と実学思想に立脚した啓蒙書、翻訳書、「往来物」など近世の寺子屋で用いられた書籍、文部省が作成した「単語篇」など、種々取りまぜて用いられていた。その後六年から八年にかけて、文部省や師範学校が教科書の編さんを行い、各県ではこれを翻刻したり、県独自でも教科書の編さんを手がけるようになった。
埼玉県でも、六年には早くも一万部以上の教科書を印刷し、管下の学校に頒布した(文部省第一年報)。七年になると減算九々図、単語篇、連語篇、日本地誌略などを翻刻している。
しかし、こうして県が教科書を管下の学校に配布しても、これらがすぐ教室で用いられなかったようだ。なかには急激な諸改革事業の多忙さのあまり役所の隅に置き忘れられることもあったようだ。例えば、六年六月の西方村の御用留には、県が各区へ布達した達しに次のような文書がみえる。
諸学校書籍先般一ト通下ヶ渡候処、未ダ学校エ配当不致取扱所抔エ留置候向モ有之由相聞ヘ、不都合ノ事ニ付、未タ配当不致向ハ、至急配当可致候也
次に六年の培根学校の時間表をみてみよう。
定課
毎日
八時~九時 単語読方 一週六時
九時~十時 洋法算術 同
十時~十一時 綴字 同
十一時~十二時 修身口授 一週二時
単語暗誦 一週四時
十二時~一時 休息
一時~三時 習字 一週十二時
このように、朝八時から午後三時まで、一時間の休息を入れて六時間学ぶことになり、現在の学校とかわりない。ただ、初期には上・下等小学校に分けることができないので、一斉授業を主とし、学習の進んでいる者には、単語読方の時間に漢籍を教えることもあった。また、習字の時間数が多いこともあるが、新しい教育制度に沿った教育をしようという意図は窺える。
なお、ここで、六年一月に見田方学校(培根学校)の校内に掲示された学校規則を掲げてみよう(東方 中村家文書)。当時の学校生活を窺い知る好資料である。
校内掲示ノ定則 張出シ書
一毎朝第八字撞鐘ヲ会図トシ生徒一統出校致ベシ
一生徒出校セバ先ヅ教官え礼ヲ為スハ勿論、尚始終業ノ機ヲ以撃柝ニ応ジ拝礼イタスベシ
但臨時官員被見廻候節ハ同様撃柝ニ応ジ礼節ヲ行フベシ
一書算筆必用ノ外一切無用ノ物具ハ校中え持参不可致事、都テ必具は銘々粗末ニ取扱ベカラズ
一喧嘩口論不可致、元来喧嘩ハ双方不和ヨリシテ起ルモノナレバ一統和同シテ各々其業ヲ可励事
一学校ニテ授ル所ノ印鑑ヲ紛失シ或ハ持参物等ヲ取忘ルゝラノ事ハ畢竟心懸不宜ニ因ル、屹度可相慎事
一二便ノ如キハ稽古前又ハ稽古更ノ節ニ可相足事
一休息ノ間ト雖モ高声ニ雑談或ハ妄言等不可致事
一硯水等ハ毎朝出校セバ必可入置事
一総テ校中往来ハ静ニ可致事
一稽古ニ相懸リ脇振細談等致間敷事
一以来少許ノ病気又ハ所用ニテ不席イタス節ハ其時々届書ヲ以テ指出スベキ事、尤届書ハ各々自ラ認ムベシ、但幼齢ノ者ハ代筆不苦事
一生徒業務ノ時間半途ニシテ無拠退校等致ス節其旨兼テ出校ノ砌リ教員ヘ可相届事
右ノ件々堅ク可相守者也
明治六年第一月