教員と生徒

63~67 / 1164ページ

小学校の教員の資格は「学制」にも示されているように、男女二〇歳以上の師範学校卒業免状或は中学免状所有者に限られた。しかし、実際には、未だ教員養成制度の確立していない期間は、士族、農商、僧侶、神官等の中から漢学の教養のある者や手習のできる者を教員にあてるほかなかった。

 例えば、市域の培根学校の教員についてみると、

  東方村農 中村義章 当五月五十五歳八月、自文政八年至文政十二年都合五ヶ年漢籍山子学句読ヲ家庭に受、菊地太郎え従北山門 自天保二年至天保四年都合三個年漢学誨督ヲ受、従天保五年至明治三年、三十七年里正職勤務、農耕之余小教授子弟

       第一区東方村農 中村義章

  第一区下谷塚学校助教申付候事

   明治六年五月 埼玉県

       下谷塚学校助教 中村義章

  見田方学校所勤申付候事

   明治六年五月 埼玉県

とあり中村義章(培根)は、明治六年五月、下谷塚学校(現草加市)の助教に任命されていたが、同月見田方学校勤務に移されている。このほか

  埼玉県管下見田方村僧侶野津学宜 当五月三十二歳九月

  善立寺学道に従ヒ嘉永四年ヨリ安政二年迄都合五ヶ年漢籍句読ヲ受、北邨大康に従ヒ、文久二年ヨリ明治元年迄都合七ヶ年漢学誨督ヲ受 明治五年当村浄音寺住職

   第一区見田方村浄音寺大康改学宜

  第十二番中学区第七十六番小学校助教申付候事

   明治六年六月 埼玉県

とあるごとく、当初は寺子屋の師匠や僧侶が教員に任命されていた。

 しかし彼等はあくまでも臨時の教員であり、仮教員であったので、埼玉県は、六年一月浦和宿に改正局を設立すると、ここで公費生に教則講習を受けさせ本教員とした。そして、本校教員は輪番で師範学校(改正局が改称)へ来て講習を受け、区に帰って、区内の分校の教員に伝達した。こうした伝達講習会は月に三度から五度も行われることになっていた(八年十月布達、教員講習規則)。

 このほか九年十二月には師範学校の分校とも言える講習学校が県下六中学区に開校されることになり、第一二番中学区では粕壁講習学校が十一年に設立された。西方村の御用留には、この年十月、粕壁講習学校の公費生七名の選抜入学許可が達せられている。

 一方、九年に「教員任免法」が制定され、本教員は県師範学校で、仮教員は各区本校で行なう試験に合格すれば、その資格が得られた。その後十年五月には、既に教壇にある仮教員も師範学校で試験を行い、合格者は本教員となる道が開かれた。

 九年における市域の学校教員についてみると、第16表のとおりであるが、第二区の本校啓明学校には七名の教員がおり、このうち一名は女子教員であった。とくに女子教員は全県下(新)でも三八名しかおらず、珍しい存在であった(県教育史、第三巻)。しかし、本校以外の学校では、市域のほとんどの学校は、二名から三名の教員数であった。

 本校の教員は、月に三度から五度の教則伝達講習会を開くことは前にも述べたが、そのほか、区内の学校を巡回して指導にあたった。

 例えば六年六月、第二区の学区取締は、袋山、増森、西方、増林、小林の各村の役人たちへ

  明十九日、本校(啓明学校=筆者)御教官区内分校御巡回之趣御達申候処、差支之筋も有之、来ル廿二日御巡校相成候間、此段御達申上候、已上

と、本校教員の巡回指導の延期を伝えている。

 小学校生徒の学齢は男女とも六歳から一三歳であり、「学制」はこれら児童にあまねく近代教育を施すことが目的であった。

 しかし、これら学齢児童の就学は決して円滑にいかなかった。埼玉県でも、「学制」頒布直後の八月、十一月、七年四月と三度奨学のための「埼玉県告諭」を管下に布達している。

 市域の培根学校の生徒年齢別書上簿によると、全校生徒は五四名で、その内訳は第17表のとおりであり、学齢を越えた一四歳の者もみられる。

第17表 6年の培根学校生徒内訳
7 2 1 3
8 6 1 7
9 5 1 6
10 9 3 12
11 4 2 6
12 8 2 10
13 6 1 7
14 3 0 3
43 11 54

(越谷市史(五)301頁より)

 当時、この培根学校の学区域にどれほどの就学義務の生徒がいたか不明であるが、後述のとおり、翌七年に急増している。

 さて、埼玉県は、学齢児童の就学率を高めるために、いろいろ苦心している。

 市域についても、六年四月、県改正局の県吏が学齢児童数を把握するため戸籍帳の提出を求めたり、同月六日には士農工商四民の就学数の調査を実施している(西方村「御用留」)。

 そして、九年一月には「不就学督促法」を制定し、あらゆる役職を利用し、就学を督促した。特に管下出張所の警部を、区域の教育行政に参画させる一方、巡査は午前八時から午後三時まで、登校しないで遊んでいる子どもを見つけたら、早速これを学校へ行かせるようにし、行かない者は学校・家庭に連絡するという極めて厳しいものであった。また、一方、経済的理由で就学困難な者に対しては、授業料を免除することも行なったことは前述のとおりである。

 しかし、こうした努力にもかかわらず就学率は高まらず、十年における市域を中心とする第二区(行政区)の就学率は、学齢児童二五五〇人に対する就学者八五〇人で三三・三%であり、埼玉県平均三八・八%はもちろん、全国平均三九・九%をも下回るものであった。

 ちなみに培根学校の就学生徒の変遷をみると第18表のとおりであり、七年に急速に増加をみたが、以後停滞しており、十年の就学率から推測しても、依然不就学生徒が多数いたと考えられる。

第18表 培根学校の生徒数の変遷
6年 43 11 54
7年
(文部年報)
64 55 119
8年
( 〃 )
78 29 107
9年
( 〃 )
76 29 105
10年
( 〃 )
48 59 107

(埼玉研究18号)