すでにみてきたように、市域村々の新時代への対応は、まず新政府の布達する諸施策への参加というかたちであらわれていた。行財政上の諸変革が、生活環境を変え、日々の村びとの生活を規制することになる。ここでは、同じように政治的に強制された変化と、生活内部でおきてくる変化との両面について、そのあり方をみてみよう。
政治の基礎が土地・人民の状況を明らかにすることであったことは、いつの時代においてもかわりない。新政府は土地については地租改正を、人民に関しては戸籍政策をつよく推進することによって、この課題を解決しようとした。戸籍によって支配の対象たる人民を把握し、戸籍の基底にあった「家」を統治機構の末端とし、政治に奉仕させようとしたからである。この試みは、維新政府が成立してまもなく実行され、京都では京都府戸籍仕法がおこなわれ、新県でも品川県のごとく京都の方法を継承した品川県戸籍法を布達している。しかし、なぜか小菅県も浦和県も、独自の戸籍法をつくっておらず、市域村々では四年の廃藩置県まで、江戸時代同様、宗門人別帳によって人口の把握が行われていた。
市域村々での新しい戸籍法による戸籍簿作成の動きは、四年四月の戸籍法の公布以降にみられる。この戸籍法の施行は翌五年二月で、全国的に統一された最初の戸籍簿がここに現出した。この戸籍は「徴兵定備」として徴兵制のもとで重要な台帳となっている。つまり、戸籍法により人民を把握するとともに、画一的に国家と個人との間に「家」を介在させ、それに兵役、救助などの国家の義務を代行させようとしたのである。