戸籍法の成立と軌を一にして、村の人びとびと達に苗字が許されたのは明治三年九月である。四年八月には散髪、制服も自由となり、華族・平民間の婚姻も許されている。その後苗字は必ず名のることとされ、苗字のないものは新たにつくるように指示されている。
越谷の村々で苗字が一般に用いられるようになるのは四年春ごろからである。すでに三年末には村役人は名のっていたようである。もっとも、江戸時代において、特別の場合は苗字を名のることが許された場合がある。たとえば、松伏村名主の石川民部のように由緒のあるもの、瓦曾根村名主中村彦左衛門のように将軍家御用の御膳細糯取扱人の功によるものなどである。また文久元年(一八六一)江戸城本丸の普請入用金を献納した増林村の榎本熊蔵、今井幸助、関根平蔵らがその身一代かぎり苗字御免となった例もある(越谷市史(四)六七三頁)。彼らはその後、幕府の長州征伐の進発入用金を献金したため、さらに忰や孫の代まで苗字御免となっている(越谷市史(六)一五六頁)。また、小菅県となって触元役を勤めたため認可されていた越ヶ谷宿の大野佐平次などの場合があった。これらは公的に名のる場合であったが、私的には一般の村びとも江戸時代から用いている場合が多い。墓碑や産社祭礼帳(越谷市史(四)八六二頁以下)などの村内における私的な記録には用いているのである。
それはともあれ、三年九月以降は全員が公的にも苗字を認められることになった。認可当時の、西方村の苗字について、檀那寺との関係をみれば第19表のようになる。軒数一三七戸は天領分の農家のみである。石塚、斎藤、秋山などの有力村民の姓を中心とする、三二の苗字が存在する。
| 檀那寺 | 大聖寺 | 安養院 | 福寿院 | 金剛寺 | 照蓮院 | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 来福寺 | ||||||
| 妙音院 | ||||||
| 浄音寺 | ||||||
| 檀家姓 | 25戸 | 75戸 | 21戸 | 4戸 | 12戸 | 137戸 |
| 須賀 | 4 | 4 | ||||
| 横川 | 5 | 1 | 6 | |||
| 秋谷 | 5 | 5 | ||||
| 深井 | 2 | 3 | 2 | 7 | ||
| 多田 | 1 | 1 | ||||
| 田代 | 3 | 3 | ||||
| 野口 | 1 | 3 | 4 | |||
| 石塚 | 1 | 17 | 18 | |||
| 斎藤 | 1 | 17 | 1 | 3 | 22 | |
| 篠田 | 1 | 1 | ||||
| 荒井 | 1 | 1 | 2 | |||
| 山崎 | 4 | 1 | 2 | 7 | ||
| 会田 | 2 | 2 | ||||
| 秋山 | 9 | 1 | 10 | |||
| 金子 | 5 | 1 | 6 | |||
| 秋元 | 1 | 1 | ||||
| 浜野 | 4 | 4 | ||||
| 松本 | 2 | 2 | ||||
| 山田 | 1 | 1 | ||||
| 薄谷 | 1 | 1 | ||||
| 金塚 | 2 | 2 | ||||
| 浅見 | 3 | 1 | 4 | |||
| 小沢 | 3 | 3 | 6 | |||
| 鈴木 | 3 | 1 | 4 | |||
| 水野 | 2 | 2 | ||||
| 藤倉 | 1 | 1 | ||||
| 中村 | 1 | 1 | ||||
| 池ノ谷 | 5 | 5 | ||||
| 沢田 | 2 | 2 | ||||
| 八塚 | 1 | 1 | ||||
| 石川 | 1 | 1 | ||||
| 田村 | 1 | 1 |
明治4年3月「宗門人別帳」