「全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立」(「徴兵令」井出家文書)てる目的で、募兵の詔が出たのは明治五年十一月である。これにもとづき六年一月には徴兵令が公布されている。苗字公認による戸籍の完備が、徴兵を可能としたのである。
徴兵令によれば、二〇歳以上の男子を徴し海陸軍にあて、陸軍は常備軍・後備軍・国民軍に編制し、それぞれ砲兵・騎兵・歩兵・工兵・輜重兵の五兵に区分している。常備軍は三年の兵役に服し、これを終えたものを後備軍として、ふだんは家で家業に従事させた。国民軍はそれ以外の一七歳より四〇歳までのものすべてをあて、非常の場合、隊編成し管内守衛にあてたのである。この徴兵令には戸主、嗣子、養子、特定の学校生徒、官吏、代人料を支払ったものなどは免役となっている。官吏および官吏予備軍としての学校生徒、税金納入責任者としての戸主ないし後継者は国家経営上、免除したのである。代人料の支払いのできる富裕なものも免除されたから、実態は農家の二、三男の賦役労働的な性格をもつものになった、とも言われている。
埼玉県は第一軍管東京鎮台に属し、ほか一七県とともに、一年間の徴兵人員は二三八〇人が予定されていた。徴兵関係の布達が越谷地方の村々へも出されてくるのは、八年にはいってからである。当初は徴兵定員に満たなかったようで、徴兵使が巡回して督促している。徴兵使は陸軍中佐か少佐の軍隊内における徴兵責任者で、各府県に一人派出され、徴兵事務を総括したものである。浦和に徴兵署がおかれ、県内数ヵ所に徴兵検査所がおかれた。壮丁名簿が作成され、これにてらして徴兵検査、つまり「裸体ナラシメ眼色耳孔ヨリ全体ヲ検査シ、遂ニ四支ノ運動ニ及ボス」検査が行われている。砲兵は身長五尺四寸(約一六四cm)以上、騎兵、工兵、輜重兵は五尺三寸以上とされている。
第二区の徴兵事務担当者は副区長井出庸造であり、各村の戸長と緊密な連絡のもとで、すすめられていた。だが、その実態はわからない。のち西郷隆盛を中心とする鹿児島県士族のひき起こした西南戦争には、市域の村々より何人か参加者があったらしく、次の四人が叙勲されている。谷中村の陸軍伍長大塚菊次郎は勲七等と年金四六円を、増林村の陸軍兵卒平野太恵次郎は勲八等と年金三六円を、越ヶ谷宿の平野新蔵は勲八等と一時金五〇円を、西方村の陸軍兵卒山崎茂左衛門が一〇円をそれぞれ下賜されている(明治十二年「御布告摺物」西方秋山家文書)。また戦死者では蒲生村で歩兵一等卒井上竹右衛門が熊本県山鹿郡鍋田村の戦争で即死(墓地照蓮院)し、同じく鈴木宇之助一等卒も同県玉名郡二俣村で戦死(墓地照蓮院)している(「戦病死者遺族公傷病者名簿」編さん室文書)。このほか、この戦争には警官隊として出動した桜井村厚見富吉も、鹿児島病院で病死している(越谷市史(五)六二二頁)。