郵便取扱所

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徴兵事務はもちろん区戸長役場と県庁ないしは東京へ連絡するもので、かつ旧来の飛脚制度として発達してきた通信事務が、郵便制度として面目を一新するのもこの頃である。

 明治三年、千住より盛岡まで定飛脚問屋の吉村甚兵衛(和泉屋)により、毎月六回の定便が仕立てられ飛脚が往復していたが、四年三月には郵便制度がはじめられている。最初は東海道筋に郵便取扱いが開始され、郵便人力車、郵便飛馬などが用いられている。五年三月には陸羽道にも開設がきまり、七月ごろより具体化していった。これによれば、中央の郵便役所を一等とし、全国のそれを二~四等に格づけをした体系のなかで、「武蔵越ヶ谷」は四等郵便取扱所となり、取扱役の松本利兵衛は等外三等の官吏の格式に準ぜられ、二人扶持と毎月五〇銭の筆墨紙代が支給されることになっている(「郵政百年史資料」第一三、駅逓明鑑)。この年八月十六日より浦和・越ヶ谷間は「日々往復」の郵便継送りが開始され、請負の往復賃は銭一貫一二五文となっている。当時、郵便取扱役が切手販売人も兼ねている。半銭、一、二、五、一〇、二〇、三〇銭の切手が売出されていた。浦和・川越・熊谷局は八年一月より為替業務を開始し、十二年三月には粕壁・岩槻・久喜郵便局などでは貯金業務も開始されているが、一〇年代を通じ「武蔵越ヶ谷郵便局」は通信事務のみであったようである。

 この頃における郵便事情はどうであったろうか。越ヶ谷郵便局全体の実際はわからない。明治十七年八月より十八年六月までの一一ヵ月間の、上間久里連合村々(のちの桜井村)における郵便発送状況がわかるので、これを表示すると第20表のようになる。表によればこの期間の総発送郵便数は二三七通、このうち公用郵便(公用の普通郵便)は一七一通、普通郵便は三二通である。「特使」とは今ふうに言えば速達のことであろう。「脚夫賃」は速達の運送費である。これら特使が公用郵便であったかどうかはわからないが、当時の郵便は圧倒的に公用が主であったことがわかる。普通郵便は一般の村びとの投凾したものと思われるが、これはそれぞれ「郵税」、つまり現在の切手代が支払われている。ほぼ平均一通につき二銭であった。

第20表 上間久里連合村々の郵便発送事情
年月 明治17.8 9 10 11 12 明治18.1 2 3 4 5 6 合計
公用郵便 5ヶ 6 7 8 6 15 34 34 19 19 18 171
普通郵便 2 4 4 3 1 3 3 1 6 5 32
郵税 4銭 8 8 6 2 6 6 1 12 9
ほか 特使 4ヶ 5 4 2 2 1 1 4 1 24
脚夫賃 26銭 34 55 30 30 10 30 51 15
免税 1ヶ 1 1 1 1 1 2 1 1 10
合計 9 13 16 15 12 18 39 38 26 27 24 237

(明治17年8月より)

明治18年「勧業書類綴込」