太陽暦の採用

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中央集権国家となると、暦や時間も統一され、国民に強制される。新政府は明治五年十一月、旧暦を廃し太陽暦を採用することを公布した。旧暦では閏月があり、その前後で季候の早晩が生じ不都合であることを理由としている。これにより明治五年十二月三日をもって、明治六年一月一日と定めた。一年を三六五日とし、一二ヵ月に区分し、四年ごとに一日の閏日をおく現在の暦法が確立したのである。これにともない時刻も改正され、昼夜各一二時にわけ一日二四時間とし、午前・午後の呼称がはじまっている。旧来の子刻、子半刻、丑刻はそれぞれ午前零時、一時、二時に、午刻、午半刻、未刻などはそれぞれ一二時、午後一時、二時に改称された。六年一月には人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節句を廃して神武天皇即位日、天長節などの祝日を定めて、村びとたちに日常生活のなかにも天皇思想を浸透させようとしている。

 埼玉県においてこれらが布達されるのは、六年五月中旬である。だが、越谷地方の人びとは、一般にもそうであったように、当初は関心を示していない。その後、祝日も増加し、一月一日の四方拝、三日の元始祭、五日の新年宴会、三十日の孝明天皇祭、二月四日の祈年祭、十一日紀元節、四月三日神武天皇祭、九月十七日神甞祭、十一月三日天長節、十一月二十三日新甞祭がきめられている。これらの祝日には、必ず国旗を掲げるべく指示されていたが、徹底しなかったようで、八年には区戸長によって村びとたちに説諭をくわえて実行させるよう布達されている。とくに紀元節、天長節は農休みして祝うべきこととし、この両日にかぎり角力・神楽・芝居などの諸興行は自由であった。政府による官製の休日が天皇中心の国家意識とかさなりあって強制されたのである。しかし江戸時代以来、生活のなかから生まれていた村々の農休の慣習を、容易に変えることはできなかった。この頃、新しい暦に変えた越谷地方の人びとは、全体の一~二割の人びとであったという。