統一国家の形成による行財政制度の整備と、これに応じた社会的経済的な変化は、個々の村びとたちの生活を徐々に変えはじめる。ここでは農家経営のなかでの変化についてみよう。
その手がかりとして、第21表の新井家の家計簿をみよう。新井家は越谷市史第一巻通史上一〇一一頁でもふれているように、慶応から明治初期の持高三六石余、家族六人、所有地は水田三町二畝、畑地はほぼ一町歩と推定される農家である。このうち小作地は水田一町四反余、畑地は五、六反でほぼ二町歩である。これらより四〇俵余の小作料と三、四両の小作金を得ている。約二町余の自作地は、家族労働力と雇傭労働力により耕され、毎年一石一斗五升前後の種籾を蒔いて、ほぼ九五俵前後の収穫をあげている。村内では上層の農家である。
明冶3年 | 明治5年 | 明治7年 | 明治9年 | 明治11年 | |||
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収入 | 田方小作 | 33俵1升 | 40俵1升 | 38俵1升 | 35俵1斗1升 | 39俵2斗 | |
畑方小作 | 3両2朱4貫593文 | 2両3分3朱4貫593文 | 3両3分3朱2貫332文 | 4両2朱3貫467文 | 4両1朱3貫588文 | ||
賃金利息 | 2両2朱384文 | 1両2分2朱417文 | 4俵176 | ||||
米販売 | 88両2分11貫146文 | 86両3分8貫642文 | 159両2朱17貫292文 | 191円80銭17貫314文 | 191円92銭 | ||
灰 〃 | 2両1分59貫200文 | 42貫75文 | 3両1朱2貫600文 | 1円20銭 | 3円 | ||
柿 〃 | 1両1朱382文 | 3両1分2朱500文 | 35円40銭 | 21円35銭 | |||
藍 〃 | 3分5貫190文 | 2分1貫842文 | 1分 | ||||
その他 〃 | 菜種1両9貫227文 | 蓮根1分2朱260文 | |||||
借入金 | (小豆2分2貫248文) | 報恩社9両2分 | 報恩社5両2分 | 〓育金2円88銭 | 〓育金7円50銭 | ||
合計 | 237両1分 | 171両2分3朱 | 279両3朱 | 307円12銭 | 342円19銭 | ||
支出 | 貢租 | 437俵139 | 40俵07 | 27俵324 | 40円64銭 | 48円99銭 | |
村費 | 5両37貫091文 | 8両4貫347文 | 17両3貫330文 | ||||
無尽 | 37両3分3朱858文 | 35両3分1貫733文 | 49両1朱2貫37文 | 49円76銭 | 58円14銭 | ||
買物 | 粕 | 1両3分2朱 | 8両1朱 | 31両1分2朱 | 39円83銭 | 44円85銭 | |
塩 | 1両2分3朱 | 3分3朱 | |||||
挽割 | 9両600文 | 6両1分941文 | 2円 | ||||
その他 | から麦5両1分980文 | 南京米1両2分3朱142文 | から麦3両2分1貫722文 | 2両2文900文 | 4円 | ||
支払金 | (南京米1分364文) | 3分1朱563文 | 16円39銭 | 11円57銭 | |||
借入利金 | 3分3朱125文 | 1分1朱425文 | ? | 1円98銭 | |||
合計 | 191両3分3朱 | 135両3分2朱 | 188両1分1朱 | 148円91銭 | 171円53銭 | ||
収支差引 | 45両1分1朱 | 35両3分1朱 | 90両3分2朱 | 158円21銭 | 170円66銭 |
各年「万覚帳」西新井村新井家文書
表によれば、石高三六石余にみあう田畑四町歩余は、明治十一年ごろまで所有されているにもかかわらず、すでに明治五年には貢租は四〇俵と減じ、七年にはさらに二七俵、十一年には二二俵(=四八円余)と減少する。このような軽減が何故おこるのか不明であるものの、当時の貢租は地租改正が実施中であるため、いまだ近代的な金納の「地租」にかわってはいない。改正が最高潮に達した九年より十一年は、八年時の生産物の貢租をそれぞれの年の相場で代金納されていたのである。税制面における金納制へ移行する過渡的な変化が、家計簿上に表われているのである。貨幣も七年までの両立てから、九年以降の円立てに変化している。
収入をみると米の販売が主で、このほか灰、柿、藍、菜種、蓮根などの収入がある。藍、菜種、蓮根などの商品作物による収入はわずかで、しかも七年以後はなくなっているから、典型的な米作農家であることが示されている。開港以降、生糸・茶の輸出がさかんとなり、藍なども含めた商業作物の生産農家が多くなるなかで、新井家の場合はむしろ米を主としており水用地帯越谷の典型とも云えよう。もっとも、他地方とは比較するほど顕著ではないにしても、市域北方の村々では織物をめぐってわずかに新しい事態に対応する動きがみられている。新井家の収支をみると、黒字となり十一年にかけて拡大するように思われるが、九・十一年は村費が地租の三分の一と規定されたこともあって記載されていないので、民費の増大する当時にあっては村費が利益率をおし下げる結果となったと思われる。小遣などの日常生活費も計上されていないので、現実には黒字幅は少なくなったであろう。食生活でも黒砂糖のほか鰹節、ハマグリ、アサリなどの魚貝類も多く用いられるようになっていた。このほか報恩社金や〓育金の借入れによる経営を行なっているのも時代の動きを反映したものとなっていた。