報恩社金の運用

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すでに小菅県のときはじめられていた救恤資金と殖産資金をかねた報徳社金は、小菅県廃止後も東京府がひきついで事務を処理しており、越谷地方の旧小菅県下の村々も、この指令をうけて従来通り運用されていた。資金運用の方法は、小菅県時代とまったく同じであった。

 積立金と囲穀および助精金のうち、殖産資金としての助精金は、明治六年には肥代金として貸付けられるだけでなく、桑茶資本としての貸付けがはじまり、第一区草加宿には物産局がとりたてられ、その資本にも使われるようになった。勧業資金の性格をつよめているのである。最初、村々の義民の出資でありながら、区戸長を通じ県令が決済する官治的性格をもった運用の体制は、十年には村落単位の報恩社中より公選で社中惣代人がえらばれ、村々の報恩社事務を担当することになった。当時、二区内の旧小菅県下の一六ヵ村よ 選ばれた惣代人は、越ヶ谷宿の池田弥右衛門、四丁野村大野伊右衛門らである。義民層の代表をもって、旧来の事務機構にかえて民間の産業育成に便ならしめようとしたのである。だが、運用の主体はやはり県官にあったから、お役所的経営をめぐって惣代人を中心とする義民層と対立している。新しく設けられた桑茶資本も物産局資本も有効に機能しておらず、旧来通りの肥代金としての貸付けのみが重要な役割を果していた。