このような埼玉県下の一部地域のみの体制は、県全体の統一方針と並行しておこなわれていた。埼玉県では六年に県庁の協議会(区戸長による)で決定され、七年一月より実施された救荒育英のための資金は、「〓育金」と呼ばれた。つまり、非常の凶歳にそなえるとともに学校維持のための資金である。旧浦和県でおこなわれた会所積立金の制度を手本としている。
〓育金の積立法は、田畑の石高一石につき一升五合を積立て、また一人一日一毛あて出金し、これを一〇年間積立てを資金とするものであった。村々の出金であったが、各区ごとに村役人および区戸長が精算を担当し、県庁がこれを統括するしくみである。当初、県下で四万円余を貯金し、そのうち三万円は小学校費にあて、残りは増殖して救荒予備にあてることになっている。のち越ヶ谷町の大火では、この資金で補助されている。
〓育金が埼玉県の統一的な育英救荒の資金であったとすれば、旧浦和県の会所積立金は、七年十一月に民務準備金に改称されている。貸付けは風火震災の救助、つまり応急の救助のほか堤防新築、荒蕪地の開拓、物産繁殖などに行なわれ、年一割の利子で動産または不動産を担保として、五ヵ年を限って貸しつけられている。越谷地方では二六ヵ村が連帯して、陸羽道の修繕費用として民務準備金のほか報恩社金の貸与をうけている。凶荒予備の資金でありながら、国や県からのまったく望めない、地方の勧業資金にあてているのである。