製糸館の構想

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報恩社金、〓育金および民務準備金はもちろん個々の農家への貸付けも行われたが、物産資本として結社して組合経営の殖産資本としても意図されたようである。政府財政からの地方勧業資金がほとんど支出されず、もっぱら官業資金として大工場にのみ支出されている現状では、地方の人びとは自己の手で資金を生み出さざるをえなかった。そのうえ、新しい組合経営による資本主義的な産業の育成も要請されていたのである。

 埼玉県は明治七年に区戸長に諮問して製糸館のとりたてを決めている。同年九月、「埼玉製糸会社禀告書」(明治七年「御布告摺物」西方秋山家文書)が配布されたが、これによれば県下で二〇〇〇株、一〇万円の資金を募り、一〇〇枠の器械を据付け、年々一八〇〇石の繭を買入れ、一五〇人の女工による製糸工場が計画されていた。これにもとづき、各区で世話掛りをきめ準備にとりかかった。第二区では越ヶ谷宿の大野新左衛門、田中作兵衛、小泉市右衛門、松本利兵衛、内藤嘉兵衛、森吉右衛門、瓦曾根村では秋山孫左衛門、西方村は斎藤孫兵衛、秋山弥之吉、登戸村の浜野富右衛門、蒲生村の清村(しむら)重兵衛ら、各村の有力者がえらばれている。八年六月には、これら世話掛の公選によって二区内の製糸館会社々長がえらばれ、区長高橋庄右衛門、副区長で勧業掛の榎本熊が選出されている。

 しかし、水田地帯越谷が養蚕地帯としてのびるためには、少ない畑地の桑園化が進められねばならず、県庁ではさかんに桑苗の植付けを奨励したが、報恩助精金による桑苗茶種の植付けも、「近年稀成大旱ニテ十ニ八九ハ枯滅」(明治十年「諸願届控之帳」西方秋山家文書)するありさまであり、ついに養蚕の振興は行われなかった。そのために、九年には二区全体が脱社し、一旦半納した製糸会社加入金を払戻されている。越谷地域における最初の資本主義的経営の試みは失敗におわったのである。