越ヶ谷宿の大火

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報恩社金、〓育金が勧業資金とともに救荒資金であるとすれば、非常災害の場合、当然支出されることになる。明治七年十月二日、越ヶ谷町の大火の際にも、救助金として支出された。

 通称「針屋火事」といわれるこの火災は、二日午前二時前、小間物渡世川上某宅より出火したものである(越谷市史(五)二五五頁)。仏壇にともした燈明が原因であった(「検視心得」井出家文書)といわれ、折からの烈風にあおられて、焼失家数は三九六戸、土蔵八六棟、物置一三七棟、堂二宇、焼死者二人に達し、越ヶ谷宿のみならず瓦曾根村で八〇戸、四丁野村で一戸と両村にまで被害がおよんだのであった。当時の越ヶ谷宿の戸数は五八九戸、瓦曾根村は一三一戸であるので、焼失戸数の割合はそれぞれ五四%、六一%となる。つまり、両宿村とも壊滅的打撃をうけたということができよう。

 これら焼失戸数のうち二一四戸、八九七人はただちに救助を要する窮民とされ、男一人に対し一日米三合あて一五日分、老幼子女は二合あて一五日分の、合計三一石余が支給された。その代価は二三九円五二銭である。これは第22表のごとく、二区村々の〓育金により出金され、このほか罹災した義民二三人は、報恩社金より一二一円七五銭の払戻しを請求した。政府は国家あるいは地方財政からも支出することのない、村びとによる自力救助のしくみをつくっていたのである。

第22表 越ケ谷町大火時の〓育金支出内容
収入 支出 窮民米代
全2区〓育金 焼失戸数 896戸
 6年上半期 1,029円50銭4 師範学校費区割 326円38銭8  内窮民戸数 214戸
 6年下半期 1,033円60銭8 学校費(7年1月~12月)   同人員 897人
 合 2,063円11銭2厘 1,428円77銭8  此米 32石6斗2升
1,755円16残6厘  代金 239円52銭2
307円94残6
10分1金差引
239円88銭4

(明治7年10月)

明治3年10月「救恤報告」埼玉県立文書館