新聞の普及

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当時の越谷地方の情況を、新聞の報道のなかにさぐってみよう。新聞の歴史は江戸時代の「よみうり瓦版」より発展し、幕末期に諸外国の影響のもとで発達してきたが、われわれが今日手にするような新聞紙となって、越谷地方の人びとの間にまで普及してくるのは明治十年代である。明治期にはいってからの新聞が、市域の村々に普及する過程は次のようである。

 すでに東京・横浜を中心に中央で発行されていた新聞も、当時は雑誌大かタブロイド版程度のものであった。これに越谷地方の状況がたまに紹介されることはあったが、埼玉県が自前の新聞を、行政上の必要から利用しようとするのは明治五年末である。十月には第一区戸長(のち第二区区長)高橋庄右衛門の申請により、県庁の区戸長の控所に、東京日日新聞と日新真事誌(発行人 英人ブラック)とを揃えることになった。中央の事情を早く知るためである。東京日日は、のち福地源一郎(桜痴)が入社し、漸進的な政府擁護の論潮が強くなる新聞である。日新真事誌は明治七年一月十八日、板垣退助らの「民撰議院設立建白書」を掲載し、のちの自由民権運動の火つけ役ともなった新聞である。翌十一月には県庁の手による埼玉新聞の発行が文部省から許可され、六年一月に創刊される。しかし、もちろん毎日の刊行ではなく、わずかに発行されたのみで、七年三月には県庁の火事で器械が焼失して休業状態となっている。結局、役人の手による新聞発行はできないまま、九年には民間で新聞発行の計画があることを理由に廃止されている。当時の新聞は、中央紙もその影響を残していたが、とくに地方紙は体裁も貧弱で、内容も布告類を県下に公示する役割をもっていたのである。