つぎに県内で出された新聞は、明治十年十二月十五日創刊の埼玉新報である。タブロイド版で浦和の開益社が出版元であった。これは県の布告類を最初に掲載はしたが、それのみでなく民間の種々の雑報をのせるようになっている。明治十年の埼玉新報の発行部数は一万三五二三部であった(明治十年内務省年報)。それほど多くはない。これもまもなく廃刊となってのちは、明治十六年三月創刊の埼玉新聞(毎月一〇回発行、四ページ建、一部二銭)まで、しばらく県内には新聞が発行されてはいない。
この間、明治六年の埼玉新聞が行政上の布告布達の公示紙的な役割を担ったことから、各区各村の区務所、事務所には配布されたと思われるし、また中央事情の吸収の意味もあって、中央紙も各区では購入されていたようである。八年四月には越谷地方の各小学校は、区長高橋庄右衛門、学区取締秋山吉重郎名で、東京の曙新聞の回覧を指令されているが、これは数回におよんでいる。市域村々にも区戸長役場、学校などを通じて新聞が普及し、村びと達もみる機会が多くなっていったと思われる。十年末には、砂原村・小曾川村・野島村の属する第二〇区では、中心地の岩槻町の弥勒寺に、精義社と称する新聞解読会が、毎月四日に開かれている。新聞の意味を考え、内容の質疑討論が行なわれたのである。このような会合は、全国的にも七、八年ごろより盛んとなり、民権派の郵便報知・朝野・曙などの諸新聞を通じて、諸知識とともに政治思想が村びとの間に浸透する契機となっている。新聞はこうして、まず村内の上層の人びとが購入するようになっていく。明治十一年当時、越ヶ谷町亀屋利助、大沢町藤屋重次郎が新聞売捌所を営んでいる。明治二十年三月の新聞報道によれば有喜世新聞は明治十四、五年ごろ、越ヶ谷辺の読者は三名であったのが、この頃諸種の新聞を読むひとは七〇〇名にも及んだと述べている。