世情一般

81~83 / 1164ページ

当時の越谷地方の情況を、まず日新事誌(明治七年九月二十二日付県新聞欄)にみれば、

  埼玉県下越ヶ谷駅は、昨年十一月一日大半類焼せしが、此節は普請も出来たり、此頃は例の五月幟や鯉の吹貫(フキヌキ)を多分仕込み居るよし。暦は旧の方を用ゆるもの十の八九。何事も東京近在とは思ハれぬよし

火災後の越ヶ谷の賑いが記され、新暦への移行が容易でないこと、開化の遅れている様子を伝えている。また曙新聞の日光山紀行文(明治九年九月十四日付雑報)によれば、

  越ヶ谷駅に至れば、毎家青竹に五色の短冊を付けて高く戸外に挿めるハ、児童の七夕祭なり。又、村翁野婆の真菰香花を携へ帰るハ盂蘭盆会、精霊祭りの設けなるべし。総じて此辺にてハ、新旧暦対照の日次に拘はらず、旧暦より一ヶ月後れの割合にて、かやうの事もするなりとぞ。千住より栗橋駅に至る迄、十里ばかりの間ハ、土地肥沃にして細民といへども貧困なる者を見ず。村翁に白米一升の直段を問ふに、此辺、白米を零売(こうり)する者なければ直段を知らずと答ふ。民間の貧困ならざるを知る。

七夕祭の賑いと、米穀生産地の越谷地方ののどかな様子を伝えている。朝野新聞(明日治十年十月二十一日付海内報新)によれば、

  一五区辺でハ地租改正ハ未だ皆出来に至らず、其の入費ハ莫大にして、一昨年より取り掛り、昨年一ヶ年の入費計りが千石に付き四百余円の割合に上れり。今後も定めて之に減ぜざる可し、全く出来上り迄にハ、幾許の金額に上るを知らざれば、高持の百姓ハ一同愁眉を開かず。○該県下ハ、明治五年娼妓の営業を禁じ、其の営業家ハ屡バ歎願に及びたれども、許可を得ず、然るに昨年、熊谷県廃県に付き、其の管内より埼玉県に合併になりたる深谷・本庄の二駅の如きハ、公然として娼妓渡世を為し居れば、旧管内の者ハ、又々其新管轄の二駅に倣ハんことを願ひ出んと奮発する者ある由。○街道筋駅外の松原等にてハ、随分悪党が出没するとの取沙汰有り。

と、地租改正の費用の増大と、娼妓解放令後の各宿場の状況を伝えている。かつて大沢町では、急な解放令では旅籠屋の生活がたちゆかないことを理由に、「相対酌女」(「万覚帳」大沢荒井家文書)の当分のあいだの許可を願い出ていた。六年三月、雇いの下女が給仕に座敷に出ることは許可されており、大沢町惣代、保長、戸長の請書が提出されている。この時期、宿駅制度の廃止により越ヶ谷・大沢町とも困窮化し、報恩社金の補助もうけていたのである。朝野新聞(明治十年八月二十六日付海内新報)はまた、

  小学校ハ格別盛んならず、県下民権を唱ふる者更になし、○庶民常に富人の説に従ふ習慣あり、つまり一般の権、豪富の掌中に在れど才子ハ却って富豪に鮮し、○上等の人に旧習多く、中等の人に侠気有り、下等にハ質朴の風を存す。

とも伝えている。直接越谷地方について述べた記事ではないが、当時の県下世情を知る手がかりとなろう。