田植天覧

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六月三日、草加宿の行在所、大川弥惣右衛門家で午前四時に起床した天皇一行は、埼玉県令白根多助を先導に七時には出発した。「明治天皇紀」によれば、「鹵簿蒲生村に進むや、少時輦を駐めて挿秧の状を覧たまふ。一望水田にして水車処々に廻転し、農民二百余人点在す。女子は苗を植ゑ、男子は馬を役し苗を荷ひ、謡歌の声遠近に聞ゆ」とある。当日とくに天皇と同車した木戸孝允の日記によれば、田植は「近方の農人ども加勢せりと云」(「木戸孝允日記」三)とある。越谷地方全体の村々が奉迎の体制をとったようである。

この時、随行記者として巡幸記事を送った岸田吟香は、当日の模様について東京日日新聞紙上(明治九年六月五日付雑報)に

  昨月、県令白根君より言上の趣もあれバ、御途中の蒲生村にて田植を叡覧あらせ給ひたり。粕壁の近所ハ麦作の田地が多きゆゑ、田植ハいまだ初まらず、蒲生村より南み草加までハ、此節が田植最中なり。大枝・大畑・大泊辺の村々にて、男子ハ白だすき女子ハ赤だすきの揃ひにて、何れも晴の服を著し、一様に菅笠を冠り、凡そ三百余人が打ち揃ふて田植を成せしハ誠に見ものなりき。聖上ハいと奇(めづら)しき事と見そなハし、暫らく御車を停めさせ給ひぬ。○此辺の女ハ皆々東京風にて、中々みめうるはしく、流行も早く来ると見え、髻(まげ)にハ緑(もえぎ)色の切を掛け、緑色の花かんざしをお揃に挿(かざし)たりき。御道筋ハ至て清浄に掃除が行届き、御輦(くるま)を拝見せんと男女老少とも未有より出掛け、山の如くに麦畑のへりや田の畔に集り、御国旗を出さゞる家とてハ一軒も無し、殊に天気もよろしけれバ、拝見の人々も大悦びの色あり

と詳細に伝えている。文章の初めに、粕壁近在は田植がまだであるといいながら、大枝、大泊村が出ているが、これは聞き違いか何かしたものであろう。新聞紙上に掲げられた絵図面をみても、蒲生村周辺の村々であったはずである。絵図には植苗男女二三〇名、ほかに増員一〇〇余名、代掻馬五疋、水車五挺が蒲生村を中心に描かれている。はじめてみる天皇に、越谷地方の人びとがどのような印象をうけたかは、大変興味深いところである。

明治天皇田植天覧之図