明治維新は宗教の上においても大変動の時期であった。日本の神道と仏教とは、これまで久しい間融合のあゆみを重ねていたので、多くの神社には別当寺が付いており、僧侶が神前で読経するなどのことはごくふつうに行われていた。ところが、神道を純粋の姿に戻そうと考える人びとは、こうした状態にきわめて不満であり、かたがた徳川幕府が宗門人別改の制度を通じて仏教の寺院により人民の身分を管轄したことが、仏教をしてとかく神道の上に位置させる傾きを生じたという事情から、幕藩体制の崩壊とともに、新政府の推進勢力に加わって宗教上のあたらしい政策を実現しようという強い意気込みが示されることになった。
こうして維新政府は、慶応四年三月、祭政一致の制度に立つことを宣言し、全国の神社は今後設けられる神祇官に付属するものであることを明示した。同時に、神仏の混淆(こんこう)、すなわち菩薩・権現(ごんげん)などの仏語を神号とし、仏像を神体とするなどの慣行をいっさい禁止する旨を発令した。これを神仏判然の令と当時よんだが、いま一般に神仏分離令とよぶようになっている。
日本宗教史上重要な一段階である神仏分離はこのようにして政府主導のもとに強調されたのであり、武蔵の地にあっては、江戸を東京として転換させることの精神的支柱という意味もあってとくに新政府も力を入れたと見られる。すなわち、明治天皇は同年(九月に明治と改元された)十月江戸入城とともに「武蔵国大宮駅氷川神社を当国鎮守となし、親しく幸してこれを祭る」との勅書を出し、武蔵国一宮(いちのみや)氷川神社(現大宮市に鎮座)へ行幸も行われた。翌月氷川神社宮司は、常陸の鹿島、下総の香取の両社の宮司とともに宮中に参内して拝謁を賜わらんことを願って許された。