社号の改称

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新政府は右の趣旨にもとづいて、じゅうらいの神社社号のうち、仏教的名辞にまぎらわしいものを改めさせ、また神社境内にある仏教的施設はいっさいとり除かせた。権現とか山王・天王とかの称はこのときいっせいに改められた。「武蔵国郡村誌」に記載する社号を「新編武蔵風土記稿」のもの(本書上巻一一八五~六頁)と比べてみると、その際の変更がはっきりわかる。

 たとえば、麦塚村の女体権現は「女体社」と改められ、西方村の山王社は「日枝神社」と、四条村の山王社は「日枝大神」と、見田方村の天王社は「八坂社」と、いずれも改められている。日枝というのは日吉(ひえ)と同じことである。近江の山王権現は古代の「延喜式」には「日吉神社」とあり、比叡山の地主神として有力であった。江戸の山王権現が明治元年に「日枝神社」と改めた(近江の日吉と区別する必要上からであろう。日吉はヒヨシともよまれるが、ヒエが本来の称であることは知られていた)ので、東日本の旧山王社は多くそれに倣ったようである。天王は、大梵天王もあるが、大多数は牛頭(ごず)天王であり、その本社は京都東山八坂郷の祇園社であって、祇園社が八坂神社と明治初年改めたために、見田方村の場合もそれに倣ったのである。ほかに八雲神社とか八重垣神社とかに改称した例もある。

 神明下村の太神宮は、このときにあたり、おそらく皇大神宮にまぎらわしいとて避けようとしたためか、神明社と改称した。神明下の名の起りはいうまでもなくこの神明社にあったのであろうから、古称に戻ったともいえる。なお東京府管内では数多くの神明社がこの時にあたり「天祖神社」と改称している。「神明」すらもおそれ多いと考えられたためだろうが全国見わたしても他に例がない。飯倉神明宮のみが、その由緒の古きを主張して「芝大神宮」の称を特に許されている。

 越谷市域には第六天とよばれる神社・小祠が数ヵ所にあった。これは仏典から出た神号であるから、東京府下では高木神社または榊(さかき)神社と改められたのだが、大宮県または浦和県ではあまり問題にならなかったようで、「武蔵国郡村誌」(以下郡村誌と略称)において「大六天社」および「面足(おもだる)社」として登場している。

 なお小さなことであるが、稲荷は明治以後もそのまま通す例の多い中に、千疋村の稲荷社は、郡村誌では「伊南利社」、さらに「神社明細帳」では「伊南理神社」である。何の故にこの書改めが行われたかは、いま知るすべもない。

 また、越ヶ谷宿の神明市神(いちがみ)社は、郡村誌では「神明社」、神社明細帳では「市神神明社」である。西新井村の石神井(しゃくじい)社は郡村誌・明細帳では「石神井社」となる。ところどころにある弁天社は「厳島(いつくしま)神社」となる。

西方村日枝神社(現相模町)