社号の改称後まもなく行なわれているのは社号の決定である。新政府は神社の国家的役割にかんがみ、社格の制度を採用した。第二次大戦の終戦時にまで存在した官幣社・国幣社・府県社・郷社・村社などの社格である。埼玉県立文書館所蔵「神社明細帳」を見ると、これらの社格の決定されたと思われる年時が判明する。それは明治四年六~十月と、同六年四月とが大部分で、まれに同八年二月というのがある(明治四年十一月に埼玉県が成立した)。
越谷市域に府県社以上はなく、郷社がただ一つある。郷社は四町野村の久伊豆社で、明治六年四月に郷社と決定されている。なお四町野村としたのは郡村誌にしたがったのであり、「新編武蔵風土記稿」〈以下風土記稿と略称する〉と同じであるが、「神社明細帳」では越ヶ谷町字花田にあるとしている。「神社明細帳」は大正二年ごろに作成されたものなので、久伊豆社の地籍が明治十年以後大正二年までに移動していることがわかる。
村社は「神社明細帳」では「某年某月村社申立済」と記されており、申立てにより定まったようであるが、ほとんどは一村にただ一社を村社としたのであるから、村落内部において意見の調整を必要とした場合もあったであろう。風土記稿には各村に数多くの神社を挙げるが、その中の一社を「村の鎮守」としている例が大半である(本書上巻一一八五~六頁参照)。その「鎮守」が、郡村誌において「村社」となっている例がこれまた大半を占めるのであるから、明治以前から村の鎮守社だったものが、明治以後も「村社」の社格を付与されるというスムーズな例が大半であることがわかる。しかし中には問題になったものもあるのである。
たとえば増林村には浅間社(鎮守)と香取社ほか六社があったが、郡村誌によると村社になったのは香取社の方で、浅間社ではなかった。大正二年になってこの浅間社の方を中心に合祀が行われることは後述する。
また小林村においては風土記稿では、神明(鎮守)・水神の二社だが、郡村誌ではそのいずれでもない「香取社」が村社となっており、明細帳でもこれを承ける(香取神社)。袋山村では風土記稿に雷電社(鎮守)・稲荷・稲荷の三社」と「持福院境内久伊豆社」とがあるが、郡村誌ではその四番目の久伊豆社が「村社」として記され、明細帳もこれを承けている(久伊豆神社)。大吉村では香取・稲荷の二社を風土記稿が記し、鎮守がいずれかを示していないが、郡村誌では香取社を村社とし神社明細帳もこれを承けている(香取神社)。
平方村は風土記稿で戸数一八五戸、神社も八社挙げている大村だが、何の根拠によったか、同書は西光寺(新義真言)持の香取社を鎮守としている。それが郡村誌では浅間社(風土記稿には浄土宗崇源寺持とある)が村社とされており、明細帳もこれを承けている(浅間神社)。明細帳には境内地の記載があるので比べてみると、この浅間社が村内五社のうち最大で三二〇坪(昭和二十三年実測によれば三九三坪余)である。もっともこれは村社に指定されたのち境内地を広くしたのかもしれない。
大間野村の場合は特色があり、久伊豆(鎮守と風土記稿に記す)・弁天・稲荷・天神の四社があったのを、明治四年八月、稲荷社へ厳島明神(弁天の改称したもの)・久伊豆社を合祀して、三社太神(神社明細帳では三社大神社)と称することを請願して許され、村社と定められたという(天神は神社明細帳では三社大神社境内社)。ごく早期に自発的に神社整理を行なった例といえよう。(神社整理については後述)
村社に定められると、「氏子」が戸数で明記されることとなり(全国共神社明細帳記載方式を適用したのである)、その戸数はその村(町村制実施後これが大字となる)の戸数と一致する。ただし埼玉県の現存の神社明細帳は大正二年に記事を整頓した時のもので、その「戸数」は何時のものかはわからない。東京府の現存の神社明細帳は、明治十二年と同十八年であったと記憶する(東京都公文書館現蔵)。村社にならなかった神社(後述)は「氏子」のかわりに「崇敬者」と記し、戸数でなく人数で記す。村内の一部分の小字とか組とかが祭っている神社の場合、その小字または組の居住人数を記すことになる。ただし埼玉県の神社明細帳には、わざわざ「内戸主何人」の記載がある。
村社にならなかったものは、通例「無格社」とよばれた(終戦時まで)。ともかくも無数に存在する社・祠の中から、神社明細帳に登載されたのだから、無格社といいながらも、それは登載されなかったものにくらべれば、一種の社格だということもできよう。郡村誌では無格社とはなく、「平社」と記している。明治四年から十年頃までの間に埼玉県が定めた称号であろうか。華士族・平民と並称したころの「平」を連想させる。
かつて鎮守であったもので、村社にならずに「平社」(神社明細帳では「無格社」)となった例もいくつか見出せる。後谷村の稲荷社、長島村の稲荷社、花田村の稲荷社などがそれである。これらはおそらく村落の鎮守としての実質は残ったのだろう。制度の上から小規模村落の神社ということで、村社にならなかったのであり、したがって、「氏子」としては隣村の「村社」に付属させられたのであろう。
新政府は明治四年七月、「氏子取調(とりしらべ)規則」と「郷社定則」とを発布し、人民を各地の神社に結びつけることにより、旧来の宗門人別改(あらため)に代る制度としようと踏み出したのであるが、まもなく近代的戸籍制度の採用の方が賢明であり急務であることに気付くに至った。したがって氏子帳作成とか氏子札交付とかの事務も、ほんの一部で着手されたにとどまった。東京府の一部、赤坂氷川神社の氏子区域にこれが実施されかけたことが判明しているが、越谷市域においてはそうしたことは認められていない。