明治四~八年に郷村社・無格社を決定するといっても、すべての社・祠に対して行なったわけではない。小祠は、屋敷神の類を考慮に入れれば無数に存在したのであるが、かなり村落の社寺にくわしい風土記稿にあっても、大半は一村に数社を記載するにとどまった。越谷市域の神社総数は、風土記によれば約二四〇(末社は含まず)であり、一ヵ村平均四・六社となる。郡村誌では郷社一、村社四六、平社(無格社)一一四、合計一六一であり、一ヵ村平均三・一社となる。ただし、後者には往々にして前者にないものがあるのであり、近世の実数は三〇〇に近い。
風土記稿から郡村誌へかけての約八〇社の減少は、とりもなおさず明治初年において小祠の整理が行われたことを示す。これは明治末年の神社整理にくらべて規模は小さいが、第一次の神社整理といってよい。
この第一次整理の対象になった神社の社号は、稲荷・天神・金毘羅・弁天・水神といったものが多い。まず小祠といってよいものだったのであろう。
整理と反対に増加した珍しい例があるので付加えておく。それは砂原村の久伊豆社である。風土記稿によれば砂原村には、聖動院(新義真言)境内の稲荷・天神両社しかなく、鎮守社は小曾川村と合同の久伊豆社であり、その社地はもと砂原村の地内であったと伝えていた。それが郡村誌では、久伊豆社と稲荷社二社(いずれも平社)の登載を見る。このうち稲荷社一社だけは風土記稿と共通するらしいが他の二種は新に登場したかたちである。すなわち、明治初年に、村民の信仰が現実に見られれば、積極的に「平社」として申請するとする場合もまれには存在したことを示す。郡村誌において蒲生村で七、七左衛門村・船渡村で五、平方村で八という多数の「平社」の登録が見られるのは、おそらく村内小字(組)ごとの鎮守社になっているものの並存を示すものであろう。