寺院の整理

91~95 / 1164ページ

神社の場合にくらべると、寺院の場合は、明治初年においてはるかに整理の度が高い。新政府が神仏分離の方針にもとづいて慶応元年三月に出した、「僧形ニテ別当或ハ社僧抔(など)ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」、すなわち、神仏混淆方式で勤めて来た僧侶は俗人に身分を改めよ、という法令は、全国に大きな波紋をまき起した。もともと寺院には葬式法要を扱うものと祈願を扱うものとの二大別があり、檀家の側を主にしていえば滅罪檀家・祈願檀家の区別であって、神仏混淆式のものは後者に多かった。すでに水戸藩・会津藩など早くから仏教を抑える政策を採った藩では、後者について取締を厳しくし、後者で住職を欠くものや檀家の少ないものに対しては容赦なく廃合を命じた。今や新政府の方針に即応して、多くの府・藩が、この点に基準を置いて寺院の整理に着手したのであり、それは、滅罪檀家に当然限られているはずの真宗寺院などへもはげしく及んでいき、真宗の本山がたまりかねて政府に抗議を持ち込むと、政府はあわてて「廃仏の意志ではない」旨を弁明する始末であった。

 忍藩では、三年七月、三ヵ条の伺書を政府へ提出した。(1)有檀無住の寺は合寺してもよいか。(2)無檀有住の寺は、本寺本山へ達せず廃寺帰農を命じてもよいか。(3)有檀有住の寺が、寺の収入が少ないため、寺・檀協議の上、合併または廃寺帰農を願い出た場合、本寺本山が反対しても、現実に差支えの筋がなければ、本寺本山に達せず許可してよいか。

 これに対して政府の回答は、(1)本山に達した上でせよ。(2)住職あるものはまず従来のままにせよ。(3)故障のないものは伺の通。ただしかならず本寺本山へ達した上でせよ。というのであった。本寺本山へ達すべし、といっても、それは単に通告しておくというにとどまり、了解を得ることを意味していないようである(明治維新神仏分離史料続上)。

 このように寺院整理は、政府の弁明にもかかわらず、全国的に着々と推し進められた。この動きに拍車をかけたものは、明治四年一月の社寺上知令である。これにより、境内地を除き、社領寺領として保持して来た土地を収公されることになったのであり、由緒ある寺院にとって大打撃であった。

 埼玉県下では廃寺が力ずくで強行されたふしはないが、だいたい右の忍藩の伺書に見られるように、新政府の意向を体して寺院廃合が促進されたようである。そしてかなりの成果を挙げた。

 越谷市域の状況は、郡村誌によって明らかである。以下表示してみる。(括弧内は廃寺の年。明治を略す)

 西方村………知性院(四)、金剛寺(五)、大徳寺(五)

 越巻村………満蔵院(八)

 神明下村……政重院(四)、最勝院(五)、三蔵院(五)

 谷中村………西福院(八)

 後谷村………光明院(不明)

 砂原村………聖徳院(風土記稿では聖動院)(六)

 小曾川村……西福院(六)、花蔵院(六)

 西新井村……普門院(八)、同正覚庵(八)、同蓮正庵(八)

 長島村………万蔵寺(八)

 大林村………万蔵寺(四)

 恩間村………等覚院(七)、延命院(七)

 恩間新田……能満寺(七)

 大道村………正福院(七)、帰命院(七)

 三之宮村……密蔵院(七)

 大里村………秀蔵院(四)

 上間久里村…正覚院(四)

 下間久里村…開演寺(四)

 平方村………月照院(六)、西光院(七)、西光寺(七)

 このほかに記載洩れも多いようである。跡地は、宅地となり墓地となりあるいは畑地となっていると郡村誌には記している。年次は明治四年から八年にわたり、宗旨は右の二九寺院のうち、平方村月照院が浄土宗なのを除けば、全部新義真言宗である。文政期に新義真言宗寺院は八二あった(本書上巻一一九七頁)。そのうち半数の約四〇ヵ寺が明治初年に廃されたと思われる。大半は滅罪檀家を擁していたと思われ、それが少数であったために整理の対象となったものと思う。越巻の満蔵院は右のごとく明治八年に廃されたが、越巻に寺院は無くなり、その檀家は全部観照院(七左衛門村。満蔵院の本寺)に統合された。

 こうした中できわめて特殊と思われる現象は、大沢町の光明院である。新義真言宗で、香取社(明治初年村社となる)の別当寺であったにもかかわらず廃寺にならなかった。おそらく神仏分離令を機として、滅罪寺院の本格的なものに性格を変えたのではないかと思われる。

 別当寺でありながら廃されなかった例といえば、西方の大聖寺である。朱印六〇石を付与されていたのは、霊験あらたかな大相模不動の別当寺たることによる。神社の別当寺ではないから、神仏分離令の直撃を受けることはなかった。

 同じ西方村でも、山王社の別当たる本山派修験東光院は廃された。修験道の宗旨そのものが、明治五年政府から廃止を命じられたのである。文政期にあった越谷市域一一ヵ院の修験道寺院はこうしてすべて姿を消した。

 ただここに修験に類する寺院で、この廃合のさなかをくぐりぬけたものがある。それは、七左衛門村の三明院で、風土記稿には現れず、郡村誌の記事を信ずれば、安政三年(一八五六)の開基創建で、天台宗、下総成田新勝寺の末派であるという。近世末期に顕著になってくる民間宗教としての不動の信仰のあらわれであったかもしれない。現在も七左町に存在する修験宗三明院である(修験宗が認められたのは戦後)。

七左衛門三明院(現七左町)