教導職としての僧侶(1)

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こうして神仏分離は推し進められたのだが、全国各地でかなりの反撥を受けており、政府も具体的方策の手直しは迫られることになり、明治五年三月社寺の事務をそっくり新設の教部省に吸収することとした。さらに翌月全国の神官僧侶を教部省に所属する「教導職」に任命し、三条の教則にもとづいて一致協力して国民の教化に当らせることにした。三条の教則とは、(1)敬神愛国の旨を体し、(2)天理人道を明らかにし、(3)皇上を奉戴し朝旨を遵守すべし、というものである。

 この趣旨に即応すべく、仏教各宗は「大教院」(芝増上寺に置かれた)を設置し、ここを中心に三条の教則に立脚して教導職の養成に奔走することになった。教導職たるもののまず習得すべき科目として、十一兼題とか十七兼題とがあり、神徳皇恩・愛国・皇政一新・道不可変といった復古思想や、外国交際・文明開化・富国強兵などの項目が含まれ、教導職はこれらを習得した上で、国民にわかりやすいように平易に説くことが求められた。

 大教院のもとに地方諸県の県庁付近の大きな社寺に中教院を置き、さらに全国大小の社寺を小教院とし、それぞれ氏子・檀家に向かって説教すべきものとされた。

 このころの市域の寺院をめぐる情勢をうかがい知るべき資料がある。それは平方の「林西寺仮日鑑」(林西寺については上巻五〇八頁、一二〇五頁以下参照)である。あいにく明治五年までは欠けているが、六年と七年との分があり(さらに十二年、十六年の分が少々ある)、それにより教導職制度実施当時の状況がわかってくる。(直接教導職に関係ないことも、当時の寺院の実情を見るために掲げておく)

 明治六年早々、檀中明細帳のことで大松の清浄院と交渉があり、また境内絵図をさし出せと名主からいわれ、作成して檀家総代の者が戸長に提出したとある。末寺がそろって、本寺への勤向きについて申出てくるが(「此度之御触にて」とあるから、何か本末関係についての法令が出たのに勢づいたらしい)、従来通りの勤ができないのなら離末せよ、と軽くあしらっている。六月七日学校が開設されたが開校三日前にイロハ手本十七本を認(したた)めるとあり、九月に玉盤〈そろばんか〉六十五枚取寄せ、習字初歩を三十五冊取寄せるとある。これは生徒の数を示すものであろう。なお松伏学校を本校とするとある。さらに十月に知人から「火葬便益論」なる書を贈られた。当時宗教界で論議のまとになっていたもの。十一月三日は「天子誕生日ニ付諸方祭礼、生徒半日ニ而休」とある。

 十一月十二日、石尾幸基という者が大教院から巡回で来たとある。同月二十二日、岩付の宗部署(おそらく浄国寺)から長帳冊の廻文が来たとて翌日から手分けで写し取っている。また県から「寺内僧侶尼弟子等之人別」を提出せよと達してくる。十二月四日専念寺(北葛飾郡永沼の浄土宗寺院か)が来て大教院へ納付する金二分を納める。

 十二月二十八日、大松(清浄院、浄土宗)から廻章が来たので赴いたところ、中教院は大宮氷川に、小教院は大聖寺に決定したこと、右について三両二分を納付した(清浄院が納付したの意か)ことを告げられた。翌日本末明細書を末寺へ廻章として出す。(翌年一月七日末寺が各持参し十二日に芝増上寺へ提出したとあり。)また地見(地券か)ができたので名主方へ実印もって受取りに行くとある。

 十二月三十一日の条に、「当暮も去年ト同しく一月ニ大三十日故、何事も不致候事」とあるのは、昨年から実施された新暦がまだ定着しないことを示すのだろう。