七年に入って二月十六日鴻巣の有力な浄土宗寺院たる勝願寺の住持が巡回説教に来た。これも明治の新時代到来への宗務当局側の対応策なのであろう。
二月二十八日、厄介なことが起った。中教院への月々出金の割当てを清浄院に集って協議したがなかなかまとまらぬ。ようやくのこと、大小の寺院一律に月々三銭ずつ出金することにきまる。しかしはたして中教院がこれを承認するかが疑問だ、とある。
三月十七日に中教院開創のはこびとなるが当院住持岡部檀梁は、老衰と病気とにより出席できない旨中教院管長(名を記さず)宛届書をしたため十四日清浄院にわたす。届書の中に「出張奉弊(ママ)」とあるのは神道の式で行われることを意味するのであろう。
末寺崇源寺の住持は十六日に出発して中教院開創式典に参列した。(中教院は大宮の氷川神社である)
明治四年上知令以来気になっていた元御朱印地払下について、元持主ではなく「岩付官員」(岩槻には明治十一年南埼玉郡役所が置かれる)に払下げになること、ただし境内の分については払下未定で近日県から出役として地方改(じかたあらため)が出張するのでそれに申し出よとのことを知らされる。さらに月末になって大川戸戸長小川新右衛門が境内払下地の見分に来た。
四月二十七日 触頭(浄土宗の代表寺院が当っていたのであろう)から廻章があって、三十日に一同清浄院に集り「説教」の講究をすることになった。それで二十九日はその準備に努め、翌日末寺二ヵ寺をつれて清浄院に説教講究に赴いた。七ツ頃帰宅した。なお日鑑は役僧が記録しているので、住持の生活の内部まで判明しない。
五月一日、来る四日大宮へ講究に行くこととなり、その準備が心がかりだとある。清浄院からこの地区の同宗の代表として中教院に派遣されることになったのであろう。しかし四日に赴いた事実はなく、沙汰止みとなったらしい。十一日は説教下案に忙しく、翌日・翌々日は十七兼題(教導職にとって必須科目のようなもの)その他の写し物に忙しかった。十四日清浄院住持とともに浄国寺(岩付)に赴いた。十九日から二十四日迄、赤山・原下屋敷・道林寺・法源寺・三面・芝などを訪問した。十七兼題の勤学のためで、東禅寺(浄土宗にこの名の寺はない)から十七兼題を借用してきたとある。右の道林寺は浅草山谷、法源寺は同橋場、いずれも浄土宗である。三十日にも十七兼題写し物とある。
六月二日、学校試検で松枝ほか一名が来た。松伏本校から来たのである。
三日認(したた)め物に忙し。門末一同会合あり。四日、門末から提出された「立教破仏」の一条につき宗部署(岩付浄国寺か)へ届書を認(したた)める。六日、天嶽寺(越ヶ谷宿)が宗部署支舎になったので明日集るようにと、四区宗門寺院へ廻文あり。また本山「交代」の納付金として収納百分二の額を宗部署へ納めるよう触れて来た。
九日天嶽寺から廻文あり、十二日に「十七説」(十七兼題であろう)講究のため集合せよとのこと。十一日、称名寺が大宮(大教院をさす)へ行く。十二日清浄院とともに天嶽寺に赴き、講究その他をとりきめた。
十三日宗部署から呼出されたので、称名寺・円福寺以下同道で出頭した。立教説教の件(前にあった立教破仏というのと同じか)につき内済請書を提出して事済む。
十五日、元寺禄田畑取調書上帳三冊ができた(土地払下申請に必要なのである)。
十六日、天嶽寺の講究に西楽寺(末寺)が赴くべきところ、学校の用で松伏行きとなり、崇源寺だけ赴く(田畑取調帳を持って行かせる)。
このころ本山へ提出する附籍届(「族籍相定候場所」を届けるもの)を三度も書直しを命ぜられ閉口している。さらに七月十四日「又々族籍書直し三ケ寺分」とある。
二十六日、大雨の中を越ヶ谷(天嶽寺をさす)へ講究に行く。