教導職としての僧侶(3)

99~102 / 1164ページ

七月三日、中教院(大宮氷川神社)へ赴き、小室(北足立郡小室に親しい寺があったのだろう)に六日まで泊り、六日に大宮(中教院をさす)に赴き、七日に試験があり、八日に帰寺した。おそらく試験とは教導職の資格試験であろう。十七兼題でくるしんだのもつまりはこれが終局の問題だったのである。

 十二日、近所の老母ども打寄り、疫病除けの念仏塔婆を立てた。

 十三日、三十両と当寺分印形を中教院へ差出した。

 十四日、西楽寺が大宮の試験に行く。

 二十五日、村役人頭百姓十二、三人集り、地絵図作成の協議。(地租改正にともなう切地図である)

 二十七日、天嶽寺が選択集(法然の「選択本願念仏集」)講義を開講すると告げ来る。二十九日聴講。

 八月四日、横(小字横手のこと)の佐兵衛から「古事記」「旧事記(ママ)」を借用披見す。こうした仏教に無関係の本も読まねばならなかったのに驚くが、こうした書物を農民が所持しているというのもまた驚きである。

 二十日、越谷へ赴いたが、今日は講釈なく、御念仏・放生会であった。二十三日、越谷聴講。

 九月一日、南の六郎左衛門に、戸長就任祝いに赴く。

 四日、今日原稿また認め中教院へ出す。(またとあるが初度は不明)

 五日、本堂裏庭の山を崩し畑につくる。

 六日、西楽寺が大松に行き、金壱歩を中教院月次出金として、弐朱を天嶽寺講料として納付。中教院出金は去る二月二十八日大いにもめた件である。講釈も無料でないことがわかる。一般人は無料だったのだろう。

 八日、本堂裏庭の畑ができたので、からしを蒔く。

 二十五日、宗部局に出す地方収納百分二を三ヵ寺分書付にして天嶽寺へ持参する。「清朗タル明月近年稀也」とある。

 十月二日、「昨夜申西北大風、越谷より草加まで焼払ひ、天嶽寺は無事の由。今朝前の吉太郎へ手札持たせ遣す。」とある。草加までとはオーバーだが、三九四戸焼けた大火である。天嶽寺へさっそく見舞を遣わすあたり、かねてよりの清浄院との親密さが遠のいて、宗門統制上の必要から天嶽寺に親しんでいるのがわかる。

 二十二日・二十三日 天嶽寺行き。(先月は二十七・二十八日であった)

 二十五日、講中間勘定日につき夕方まで越谷(天嶽寺をさす)に居る。

越ヶ谷天嶽寺山門

 十一月四日、中教院・明徳寺に早朝赴く。明徳寺は浄土宗、北足立郡小室村。前に「小室」とあったのはこれであろう。

 十日、「中教院□□姓名書上□□□□事」(破損のため判明しない)

 十四日、「中教院より、来ル十七十八両日之間試験ニ罷出候様差札、円福寺持参。今日より勤学之事。」また試験である。もちろん本人から出願しておいたのだろうが、試験の日取がきまるとすぐ勉強である。檀梁が住持になったのは二五年前であるから、老年の部類である。老境に入っての試験勉強はさぞつらいことであったろう。

 二十一日、「十七題勤学著述、弥多忙□□迷惑之事」廿二日同前とある。役僧がはたから見る目にも気の毒だというのである。

 二十七日、越谷へ聴講。二十八日、岩槻から小室へ廻り一宿。

 十二月十四日、川の洲さらえ。

 二十日、「伊三郎越谷へ鼇頭古事紀(ママ)取ニ遣。」ゴウトウとよみ、今の頭注のこと。前に古事記が出たのは八月四日であった。

 二十七日、檀方死亡帳作成にかかる。(過去帳とどうちがうのであろうか)

 以上で「林西寺仮日鑑」明治六、七年からの引用を終える。突如として教導職制度が出現して、それにふり廻されそうになっているさまがよくわかる。新政府が大いにはりきったこの諸宗合同の教化政策は、けっきょく、木に竹をついだようなところばかり目立ってき、評判は落ちる一方で、ついに明治八年一月、真宗諸派の分離請願が太政官より許可され、四月各宗合併の教院は廃止され、各自に布教することになり、五月ついに大教院は解散した。同十年、教部省を廃止し、その事務を内務省社寺局に移し、さらに十七年になって教導職を廃止して、この宣教政策は終止符を打った。