明治五年以来、地方行政の区画としてもちいられてきた大小区制ないし区制の体制は、明治十一年七月二十二日布達の郡区町村編制法によって廃止されることになった。郡区町村編制法は、大区・小区制をやめ、行政区画として郡・町・村を復活し、とくに人口稠密な土地にのみ区を設置し、郡・区には郡長・区長を、町村には戸長をおくとするものである。
この法律は、同じ日に布達された府県会規則・地方税規則とともに三新法とよばれる。この名称は、三法律を賛美する意味で、当時の人びとがよんだ俗称であるが、また三大新法とも呼ばれている。この三新法による地方支配の体制は、明治二十二年の市制・町村制、同二十三年の府県制・郡制の施行までつづくので、一般にこの時期を三新法体制または三新法時代ともいう。本章の「町村制成立期の越谷」は、この時期をとりあつかっている。
ほぼ一〇年間にわたるこの時期は、わずかな期間であっても、それでも出発当初のままでは推移してはいない。もっとも大きな改正は、明治十七年五月におこなわれた区町村会法、戸長選任法、戸長役場区域などの改正である。郡区町村編制法による町村は、従来の旧制度を破棄する方針でのぞんだ画一的な大小区制ないし区制の体系を排して、江戸時代以来の町村の伝統を重んずることを法律の基調としていた。だから郡・村が復活し、名主にかわった戸長も、従来の官選からなるべく村民の公選によって就任するものとされた。この体制のもとで制定された町村会も、地方の自主性を反映させるものとなっている。
後に述べるように当時は、国会開設、地租軽減、条約改正をめざす自由民権運動がさかんになりつつある時期であった。この運動においては最初から「地方自治」の要求がさけばれているが、三新法の公布は、この要求に現実の根拠をあたえ、一層、世論をたかめる結果となっている。当初、政府は町村および戸長の性格を、「町村ハ視テ以テ自然ノ一部落トシ、戸長ハ民ニ属シテ官ニ属セス、該町村ノ総代人」であると、町村は自治体でありかつ戸長はその代表者であると認めていたが、法律施行の過程で修正され、自治体と町村代表者たる性格に加えて、国家の行政区画と国政の執行機関たる性格をも持たせることになっている。当時の言葉でいえば、「戸長ハ行政事務ニ従事スルト、其町村ノ理事者タルト二様ノ性質」をもつのである。町村および戸長のこのような二重の性格のうち、行政区画にしてかつ行政官吏的な性格が強められるのが明治十七年の改正である。
地方自治要求がつよくさけばれ、政治運動がさかんになったこと、国家財政の負担を地方住民に転嫁するためには、行政機関であった方が統制しやすいこともあって、町村の自治的性格を変えて行政的に利用する傾向をつよめるのである。十七年の改正は戸長役場の所轄区域を拡大し、従来の一村一戸長制を廃し、ほぼ五ヵ村を目安に連合させて一戸長をおき、しかもその戸長は公選ではなくて官選制とした。さらに従来の町村会は議員の互選によって議長をえらんでいたのに対し、戸長を議長にするよう改正し、この議長に町村会の招集・開会権、発案権、中止権を与えることになった。この改正の背景には、町村理事者と議会とは本来同一体となすべきものという考え方が存在し、一面では行政上の町村事務を能率化しようとしたものでもあった。
こうして町村の自治的性格は失われ、明治二十二年四月からの新町村制が準備されてゆく。この十七年より二十二年三月までを連合戸長制度の時代ともいう。