ところで、郡区町村編制法のもとでの市域村々の状態はどうであったろうか。この法律をうけて埼玉県でも大小区制および区制を廃止し、新しい郡村制が施行されるのは明治十二年三月十七日である。政府の指令より半年余おくれたわけであるが、これは三新法実施の基礎となる地租改正の事業がいまだに継続されていたからである。
地租改正の終了により実施された埼玉県の新郡制は、小さな郡は旧来の郡名をのこしたまま郡役所は統合され、大郡はかえって分割されて郡役所が設置されている。たとえば、北足立郡と新座郡は浦和宿に郡役所がおかれ、また大里郡・旛羅郡・榛沢郡・男衾郡は熊谷宿におかれている。埼玉郡は逆に分割されている。南北に区分されて、北埼玉郡は行田町に、南埼玉郡は岩槻町に郡役所がおかれ、市域村々はすべて南埼玉郡に所属した。南埼玉郡の誕生である。このとき葛飾郡も旧武蔵国の北葛飾郡と、旧下総国の中葛飾郡に分割されたが、郡役所は統合されて杉戸宿におかれている。
南埼玉郡役所は他郡とほぼ同じように、十二年四月一日に開庁している。初代郡長には松岡半六が就任したが、まもなく北葛飾郡惣新田村出身の間中進之(初代の県会議員、東武地区幹事)に交代している。郡長就任によって、従来、区におかれていた正副区長および学区取締、医務取締、水理掛、堤防取締役などは廃止され、これらの諸事務はすべて郡役所に統合されている。
郡制施行にともなって、同郡ないし隣郡にある同じ町村名の変更が行われている。郡区町村編制法によれば、「町村ノ区域名称ハ旧ニ依ル」とあったが、現実には、同地域に同じ村名があることはまぎらわしく不便であったからである。町村名の変更も、完全に変える例はなく、二コの同町村名の場合は立地上の方角を示す語が一字加えられるのがふつうであったようで、市域の村々では次の四ヵ村がその名称を変えている。
後谷村→北後谷村 川崎村→北川崎村
小林村→東小林村 荻島村→南荻島村
後谷村、川崎村は現八潮市内の南後谷、南川崎に対し、小林村は菖蒲町の西小林に対し、荻島村は羽生市の北荻島に対する変更である。埼玉郡内ではこのほか青柳村、中曾根村、平野村、新宿村、辻村などが南北の呼称をくわえられている(明治十二年「御布告摺物」西方秋山家文書)。こうして、従来の埼玉県第二区後谷村誰某は、埼玉県南埼玉郡北後谷村誰某となり、行政上の支配命令の系統は、これに応じて県令―郡長―戸長に統一されている。江戸時代の郡村名が修正されながらも復活したわけである。だが、旧町村、区域の復活はそのまま役場・村役人などの行政機構の復活とはならなかった。戸長名称はそのままのこったが、旧来の正副戸長制は四月十一日をもって廃止され、村事務所は戸長役場と名をかえている。