町村の編制

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ところで三新法の施行順序で、府県は町村の編制について実地に応ずるよう指示したが、旧来の組合町村のしきたりや、共有財産を有する場合などの町村の統合は、民間の便宜にまかされている。地方によっては町村財政の節約上、すでに町村合併が認められた場合もあった。全国で明治七年の七万八二八〇ヵ村は、十一年には七万一七一一ヵ村に減少している。したがって、町村編制は実情に応じてすすめられたものと思われるが、これにより編制された町村を単位に戸長がえらばれている。明治十二年四、五月ごろから市域でおこなわれた町村の編成をみると第23表のようになる。

第23表 三新法下の市域町村
町村名 戸長 戸長役場 備考
大道村,三ノ宮村,恩間新田 栗原時三郎 大道村31番地 戸長自宅
恩間村,大竹村 渡辺孝太郎 恩間村2番地
船渡村,大泊村 神田義太郎 船渡村107番地
平方村 白鳥忠次郎 平方村13番地
北川崎村,大杉村,大松村,大吉村,向畑村 長野半右衛門 北川崎村12番地
袋山村,大里村,大林村,上間久里村,下間久里村 細沼貞之助 袋山村20番地
弥十郎村 黒田慶太郎 弥十郎村4番地
増林村 榎本健蔵 増林村146番地
増森村,中島村 中村久平 増森村62番地
花田村 栗原勝右衛門 花田村9番地
東小林村 江原盛蔵 東小林村14番地
大沢町,大房村 森川次郎兵衛 大沢町23番地
砂原村,小曾川村 坂巻宇之助 砂原村2番地
西新井村,長島村,北後谷村 新井儀左衛門 西新井村90番地
南荻島村 川上次郎右衛門 南荻島村29番地
越ヶ谷宿 大野佐平次 越ヶ谷宿59番地
四丁野村,神明下村 会田本太郎 四丁野村共有家屋
谷中村,越巻村 関根三右衛門 谷中村10番地
七左衛門村 野口八郎左衛門 七左衛門村57番地
大間野村 中村五郎左衛門 大間野村42番地
蒲生村,登戸村 清村重兵衛 蒲生村53番地
瓦曾根村 中村彦左衛門 瓦曾根村1番地
西方村 秋山吉重郎 西方村26番地
東方村,南百村,見田方村 中村七郎右衛門 東方村1番地
千疋村,別府村,四条村 立沢新五郎 別府村4番地
伊原村,麦塚村 深井七郎兵衛 伊原村36番地

 表によれば、江戸時代の旧村が名称・区域のみならず行政の単位としても復活した村は、平方、弥十郎、増林、花田、東小林、南荻島、越ヶ谷、七左衛門、大間野、瓦曾根、西方村の一一ヵ宿村である。弥十郎、花田村以外はいずれも一〇〇百戸以上の大村である。二ヵ村で戸長役場を統合したものは恩間・大竹、船渡・大泊村など一八ヵ村の九役場である。三ヵ村統合は四役場、五ヵ村統合は袋山村ほか四ヵ村、北川崎村ほか四ヵ村の二役場である。

 このような町村編制の情況を、区制下の村事務所体制と比較すると、二九事務所より二六役場となり、市域内の村々でも役場統合がすすんでいることがわかる。このときより大吉村、大泊村、見田方村が独立の役場をもたなくなっている。統合の契機は小村たるゆえの財政難と思われるが、一方ではわずか四〇~五〇戸の弥十郎、花田村が独立していることからみれば、全体的にアンバランスな編制であった。袋山村ほか四ヵ村はすでに区制下で組合村となっており、北川崎村ほか四ヵ村も、本来四ヵ村で構成していた組合に大吉村が参加したかたちとなっている。いずれも地縁的に密着した村々であった。