戸長役場

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新しく編制された町村には公選戸長がおかれている。埼玉県では四月十一日「町村吏員配置法及給額」を布達し、従来の正副戸長・村用掛にかわって、町村に戸長とその補助者としての「筆生」をおくことにした。筆生はのちの助役である。戸長は同日に「戸長選挙規則」(明治十二年「御布告摺物」)を布達し、満二〇歳以上の男子でその町村に本籍をもち、地租を納むるものの中より選ぶべきこととした。任期は三年である。市域村々では恐らく公選であったと思われるが、第23表掲載の戸長全員が七月には選出され、二十六日ないし二十八日に就任している。彼等はかつての副区長、学区取締、正副戸長の経験者である。

 戸長は次のような事務を担当することになっている。

  第一、布告布達ヲ町村内ニ示ス事

  第二、地租及諸税ヲ取纒メ上納スル事

  第三、戸籍ノ事

  第四、徴兵下調ノ事

そのほか土地建物の質入れ書入れや売買の際に加印すること、地券台帳、学校、窮民救助など九項目である。このほか県令・郡長の命じた事務に従事することとされている。町村内における町村費による事務は、当然これ以外に管理すべきものとされたから、以上の諸事務はまさに国政委任事務であり、その担当者としての戸長の位置づけであった。

 これら戸長によって筆生がえらばれたが、戸長および筆生の給料はその町村の戸数に応じてきめられている。たとえば一〇〇戸の村は戸長給料は二五円、筆生は二人配置されやはり二五円の給料をうけることになっている。越ヶ谷宿のように五〇〇戸以上となれば戸長給六五円、筆生五人も一人六五円である。この戸長・筆生の給料は地方税より支弁されるものときめられたから、町村会審議による町村費の支弁ではなく、そのため町村民の代表者たる町村会議員にコントロールされることはなかった。このことは三新法に対する批判のなかで、民権派勢力によっていち早く、地方自治の内実を失うものとして指摘されている。公選によって人民代表的な形式はととのえながらも、戸長の町村理事者的性格より行政事務担当者としての性格をつよめるのには便利だったのである。戸長役場は二六ヵ村のうち半数以上の一六ヵ村が戸長宅におかれている。一〇ヵ村は何らかの形で戸長の私宅と分離しているが、公私分化は完了せず、いまだ過渡的な段階であった。

 この戸長および筆生によって統括される村内の役職を、西方村の場合についてみれば第24表のようになる。明治四年以降の変化もあわせて示したものである。四年までおこなわれた名主・組頭の体制は、六年には副戸長・保長の体制へ、明治八年の戸長・副戸長・代議人の体制へ、さらに明治十年の戸長・副戸長・校務掛・惣代人および小菅県以来の報恩社金の運用にあたる義民惣代人の体制へと変化し、十三年には戸長・筆生・惣代人のほか学務委員・衛生委員・井筋惣代・社倉積穀検査人などの体制となっている。なお、十三年には商業組合行司もみられる。惣代人は十年には町村会議員を兼ねたものであったが、十三年の惣代人はこれと異なり、「戸長ノ指揮ヲ受ケ其町村協同ノ事務ニ従事」するものであった。学務委員は旧来の校務掛にかわった学校の世話役であり、衛生委員はコレラ流行にともない町村の衛生事務の責任者として設けられたものである。いずれも公選であった。井筋惣代は八条領の用水に関するものであった。

第24表 西方村の役名と役職者層
明治4 階層 明治4 明治6―10 明治13
150石以上 1 名主 副戸長,戸長
125~150 2 名主 副戸長,学区取締,代議人,惣代人 戸長,惣代人(社倉積穀検査人)
100~125
70~100 2 名主 代議人,義民惣代,惣代人 惣代人(社倉積穀検査人)
50~70 2 小前惣代 義民惣代
40~50 4 組頭 保長,副戸長,義民惣代,校務掛 筆生(2人)
学務委員,井筋惣代
30~40 5 名主 保長,代議人,義民惣代,惣代人 衛生委員,惣代人(商業組合行司)社倉積穀検査人
25~30 1
20~25 1
15~20 7 組頭 保長,副戸長 衛生委員
12~15 4 組頭 保長,副戸長 筆生
10~12 2
8~10 4 保長,副戸長
6~8 8
4~6 11
2~4 23
2石以下 53 保長 義民惣代

明治4年「石高小前帳」「宗門人別帳」・明治6,8,10年「諸願伺届書控之帳」
明治13年「諸願伺届簿」