国会開設請願運動

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十年代になると、全国各地に豪農層の勧業・衛生・教育などの研究演説組織がつくられるようになり、政治的なめざめとともに政治結社も多くなってくる。埼玉県でもっとも早くから民権結社として活躍したのは、明治十二年ごろ成立した北埼玉郡羽生町に本拠をおく通見社であった。十三年にはさらに増加し、これら結社を基礎に国会開設請願運動が、全国的に最高潮に達している。豪農層によって担当されたこともあって国会開設・地租軽減・条約改正のほか、地方産業の育成・地方自治の確立などは重要なスローガンであった。埼玉県ではこの年三月ごろには、国会開設請願の準備が堀越寛介を中心とする北埼玉地方と、福田久松を中心とする入間郡地方で行われている。十一月ごろには双方とも元老院へ請願建白書を提出した。当時、全国で提出された請願・建白の件数は全体で五八件で、これを提出した地域は三四県におよんでいる。これに署名したものは二四万余人に達している。

 この国会開設請願運動に越谷地方の人びとが、どのようなかかわりをもったかは明らかではない。請願準備が行なわれていた十三年五年当時の、粕壁駅の近況を新聞にみると、「新聞紙を見る者、僅か六、七名に止まる。有志者の申合にて連月一回演説会を開けり、其の論旨ハ農業教育に止る」(朝野新聞)と伝えているが、ようやく演説会も開かれながら、いまだ実用的な啓蒙が主であったらしく、政治思想が浸透したとは云い難い状況であったらしい。ところが、同じ年の三月には、二郷半領村々では如水社という民権結社がすでに設立されており、国会開設の請願を決定したという。南埼玉郡は北埼玉や北葛飾郡に数歩おくれていたのである。