草加嚶鳴社の成立

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このような国会請願運動を契機に、県下各地で有志者が団結して民権結社をつくり、演説や討論を通じて親睦をはかるようになってくる。このころから越谷周辺に設立された結社とその中心人物をみると、

 十二年    通見社    羽生町 堀越寛介

 十三年一月  第十六嚶鳴社 大宮町 永田庄作

 十三年二月  第十七嚶鳴社 杉戸駅 鈴木彰

 十三年三月  如水社    三輪野江村 大塚喜太郎

 十三年八月  麗和会    浦和駅 星野平兵衛

 十四年七月  草加嚶鳴社  草加駅 高橋荘右衛門

 十四年十一月 精義社    岩槻町 佐久間範二郎

 十五年二月  鳩ヶ谷嚶鳴社 鳩ヶ谷町 船戸某

 十五年三月  自由偕進社  杉戸駅 野口〓

などである。如水社・精義社の設立月日は明らかではないが、右の時期にはすでに活躍していた。十三年後半より十四年になると、結社のおかれた町村はもちろん、周辺諸村でも演説会が開かれ徐々に政治思想が浸透するようになっている。これら結社のなかで、もっとも越谷に影響をあたえたと思われる草加嚶鳴社についてみておこう。

 嚶鳴社という名称は、すでに大宮・杉戸駅でも用いられているように、草加特有のものではない。もともとは、かつての元老院大書記官であった沼間守一(東京横浜毎日新聞社長、現在の毎日新聞社)が中心となって、東京で生まれた結社の名称である。はじめ法律講習会としてうまれた嚶鳴社は、やがて演説討論結社として関東各地に支社をおくようになった。東京本社を第一嚶鳴社として、設立順に番号がついている。現在のところ番号は十九嚶鳴社(足利)までしかわかっていない。全体で嚶鳴社の支社は二九ヵ所といわれるので、草加嚶鳴社は二〇番台の支社にあたるのであろう。

 草加嚶鳴社の設立当時の様子(東京横浜毎日新聞一四年七月三日付)をみると、

  埼玉県下北足立郡草加宿及び近傍各地の有志者ハ、大に人智を開発し、広く公益を興さんとて、今度協議の上一社を結び、毎月一回宛、学術演説を開くことに決し、一昨日、草加宿の中央なる東福寺に於て其第一会を開きしが、降雨にも拘はらす聴衆無慮数百名ありて頗る盛会なりし。了りて社員三十名計り、同宿大和屋に到りて親睦の宴を張り、将来の維持法等を協議せられしと。

とのべている。同じ日の朝野新聞によれば、この日(七月一日)設立された草加嚶鳴社の会員は一〇〇名にのぼり、会員をふくめ傍聴人は三〇〇人余に達したという。この会員がどの村々の誰かは、史料がないので不明であるが、越谷南方の村びとでこれと深くかかわった人びともいたのではないかと思われる。

 草加嚶鳴社は県会議員高橋荘右衛門(かつての第二区々長)が中心となり、毎月一回の定期演説会がその後開かれている。毎回、東京嚶鳴社より堀口昇(朝野新聞記者)、青木匡(毎日新聞記者)、丸山名政(代言人)などが弁士として招かれている。演説会がおわると討論会が開かれたが、「我邦方今ノ教育ハ自由ヲ主トスベキカ、将タ干渉ヲ要スルカ」という題や、「道徳ハ世ノ開明ト与ニ改良スルヤ否ヤ」などのテーマで激論をたたかわせたらしい。教育・道徳問題は当時の重要論題の一つであった。