自由党と改進党

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自由民権運動のひろがりに驚いた政府は、十四年十月、政府内部において民権派に近かった大隈重信参議を追放し、きたる明治二十三年には国会を開設する旨の詔勅を出している。この詔勅によって政党結成は急速にすすむ。ちょうどこの時、かつて国会開設請願運動をすすめた有志者は東京に会しており、この席上、板垣退助を総理とする自由党の結成が決定された。一方、立志社のリードによっておしすすめられた自由党結成のあり方に不満をもった在京の新聞記者、代言人(弁護土)、大学生ら知識人は、別に大隈重信を総理に推して十五年三月立憲改進党を組織した。草加嚶鳴社に影響力をもつ東京嚶鳴社は、この時、改進党に所属している。

 埼玉県において中央の動向にいち早く応じたのは、北埼玉の通見社を中心とするグループである。十五年二月、熊谷駅に会し、堀越寛介を部理(埼王部の総理の意)に「自由党埼玉部規約」をきめている。これに対し、演説を通じて嚶鳴社と関係の深かった草加・浦和・大宮・鳩ヶ谷などの県南の地は、改進党への入党者が多くなる。この当時における県政をめぐる県南と県北との対立は、また改進党と自由党との対立でもあった。

 このような中で、越谷地域は両党の谷間の地域となっている。草加地域では高橋荘右衛門(原島村)をはじめ大川弥惣右衛門(草加宿)、戸塚弥吉(草加宿)、藤波小弥太、宇田川孫蔵、佐藤乾信(南川崎村)などの有力者が改進党員であったのに対し、粕壁の練木半十郎、岩崎徳蔵らは自由党員である。当時の市域村々での入党者は、現在のところ井出庸造(七左衛門村)の改進党と川上参三郎(南荻島村)の自由党とであったことしかわかっていない。川上参三郎は井出庸造よりも年令的に若く、政治歴においても後輩で、彼が活躍するのは二十年代に入ってからである。こののち越谷政界は大塚善兵衛(越ヶ谷)、中村悦蔵(大間野)らが中心となって自由党の地盤となる。

 井出庸造は、かつて副区長をつとめていた当時の区長高橋荘右衛門が改進党員であり、かつ県会議員として同僚であったことなどから改進党に結びついたと思われる。あるいは高橋の主催する草加嚶鳴社に近い存在であったのかも知れない。県会議員は改進党員が多いといわれるが、当時、市域村々より県会へ出ていた那倉官三郎(大泊村)、中村賢之助(大間野村)、細沼範十郎(袋山村)、細沼貞之助(袋山村)らの政治的な動向は明らかではない。この時、性格づけられた越谷地域が両党の谷間であるという性格は、時期により強弱の差はあれ、近代を通じて変っていない。