町村制研究会の開設

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明治十五年より十六年にかけて、自由・改進両党の組織化がすすめられていったが、同時に、両党の対立が深まってくる。折からの不景気と、政治運動に対する警察の取締りの強化とから、十七年には自由党は解党する。十八年より十九年は政治運動の沈滞期であった。それでも十九年には武里地区を中心に、勧業・教育・衛生の三事を目的とした「南埼玉三事会」が開かれ、演説会が催されている。

 一時、下火になっていた政治運動が、民力疲弊、言論の抑圧、条約改正などの問題をめぐってふたたび活発となるのは明治二十年からである。憲法発布、帝国議会の開設を二~三年後にひかえて民心が動きかけていたところへ、憲法の内容や条約改正案が民間に洩れ、政府批判に点火するのである。十月より十二月にかけて民力休養(地租の軽減)、言論集会の自由、条約改正の中止をうたった、いわゆる三大建白運動が展開される。翌年には旧自由党員を中心とする大同団結運動も展開する。

 このような中央の動きに呼応して、旧自由党系の地盤であった南埼玉郡北部、北埼玉郡、中葛飾郡などでは野口〓を中心に建白運動をすすめている。改進党系に近かった越谷以南の地域では、来るべき町村制の実施にそなえて町村制の研究会が開かれている。地方自治は民権派の主要なスローガンもあった。市域で二十一年九月に開かれた(毎日新聞二十一年九月四日付)研究会は、

  埼玉県越ヶ谷宿の井出庸造、島根荘三、武内周吉等の諸氏発起人となりて、今度町村制研究会を組織し、去る二日発会の式を行ひ、東京よりハ宇川盛三郎氏出席せり。来会者ハ百三十五名にて山崎春之丞、川上参三郎、貴田久太郎、武内周吉、高橋荘右衛門、宇川盛三郎等の諸氏演説したり。又同日、草加宿研究会の定日なるを以て、宇川・高橋の両氏ハ同会へも臨席したり。

井出庸造墓碑(七左町観照院)

 このほか、同じ月二十二日には粕壁宿ほか二八ヵ村も大垣六郎右衛門(県会議員、大場村)らの発起で、長宮村大光寺に第一回の町村制研究会を開いている。演説者は粕壁の練木市左衛門、原又右衛門(大場村)、宇川、高橋らであった。いずれも研究の具体的な内容は明らかではないが、ようやく越谷地域にも演説会が開かれ、政治問題を考える風潮が出てきたのである。