初期農政の特色

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自由民権運動の政治的なひろがりは、地方における政治結社が担っただけではない。勧業問題をはじめとする教育・衛生などの学術上の研究結社もひろく運動の裾野を形成したのである。地方産業の発展は地方自治確立のための不可欠の要素として、その担当者である豪農層につよく意識されていた。

 ところで、地方産業の育成に対する政府の政策はどのような性格をもっていたのであろうか。当時の農政は、幕末農法の継承をもってはじまり、殖産興業政策の一環としての勧農政策による上からの奨励と、維新以後の新しい社会経済的な条件に応ずる農村内から発展する動きとの、二重の流れによって形成される。つまり、西欧農法の模倣による上からの奨励と在来農法との流れである。この二つの流れは、初期は極端に遊離して出発し、明治二十年代を経て融合する後期の農法へと移行する。ここでは、初期の農法および農政を、越谷地域の生産上の特質との関連でみておこう。

 明治政府は諸外国に伍していくために、早く産業革命をおこない資本主義を育成せねばならぬ課題を負った政権であったから、殖産興業はいわば至上命令であった。この課題に対し、政府は重要産業の官営化、産業資本金の貸付、民間産業の保護の三方法によって解決しようとした。重要産業とは、陸海軍工廠などの軍事工業、鉄道・海運などの運輸・通信業、鉱山業などであり、産業資本の貸付も、輸出振興のための紡績・製糸業などに重点がおかれたから、純農村地帯である市域村々とはほとんど関係はない。第二章五節でみた製糸館の構想が、このような政策に対応しようとした唯一の動きである。

 一般の農村に対する勧業政策は、明治七年の内務省への勧業寮、勧農局の設置、十四年に農商務省が設置されて担当されるが、ただちに具体的な有効性をもってはいない。殖産興業政策にみられる欧米技術の移植の方針が、一般の勧農政策におよんでいる。市域村々に残存する史料によれば、当時は、東京の内藤新宿試験場、駒場農学校、三田育種場などの中央施設の啓蒙や、海外より移入した種苗・種畜の紹介や希望者の募集がおこなわれたにすぎない。明治八年に西方村では、県令に対し、一人用の「媒助器械」と農書である「農業三事」を一部申請し(明治八年「諸願届書控之帳」秋山家)ているのも、上からの奨励に答えようとしたものであった。

 一方、農村内部からは十年ごろを境にして、勧業演説会などのほか農談会なども開かれ、農事の体験が交換・討議されるようになって、新しい方向が求められてくる。これらのほか農事会、農商工諮問会、勧業諮問会なども開かれるようになり、民間の農業技術者である老農が県や政府に登用され、実地に根ざした農業の改良が行われるようになる。政府の指導とこれら老農の指導とは、やがて二〇年代には合体し、豪農層を基盤とする農会が各村に組織され、農業に指導的な役割を果すようになるのである。