この間、地方の勧業政策を担当したのは府県の勧業掛であり、これを補助したのは区村の勧業委員であった。明治十一年の三新法までの区制のもとでは、勧業事務は副区長が担当した。越谷地方の第二区は、副区長榎本熊(増林村)がその掛りである。郡制施行後、南埼玉郡は大垣六郎右衛門が選ばれたが、やがて榎本熊にかわっている。区や郡におかれた勧業委員だけでは事務に手薄とみえ、十二年の全国農区の区分を契機に、十三年八月には埼玉県でも農区制を設け、勧業委員のもとに農区委員をおいている。当時さだめられた農区および農区委員は、
南埼玉第一農区 伊原村 深井七郎兵衛
伊原村、麦塚村、千疋村、南百村、四条村、別府村、見田方村、東方村、西方村、蒲生村、登戸村、瓦曾根村 ほか二三ヵ村
同 第二農区 七左衛門村、野口八郎左衛門
東小林村、中島村、増森村、増林村、花田村、越ヶ谷宿、大沢町、四丁野村、神明下村、谷中村、越巻村、長島村、大間野村、七左衛門村、鈎 上新田、鈎上村、西新井村、北後谷村、南荻島村、大竹村、恩間村、小曾川村、砂原村、袋山村、大房村、大林村、大里村、上間久里村、下間久里村、弥十郎村、大吉村、大杉村、大松村、向畑村、北川崎村、船渡村、大泊村、平方村
同 第三農区 百間金谷原組 関根浅右衛門
大道村、三ノ宮村、恩間新田
粕壁宿ほか四〇ヵ村
当時の勧業委員は県下に八名おり、南埼玉郡は榎本熊であり、そのもとで深井・野口ら六農区の六委員が参加した。彼らはいずれも農村側からの勧業政策の補助者である。
明治十六年五月には、政府はさらに勧業政策の協力者として各町村に勧業委員をおくよう指示する、勧業政策を町村の末端にまでおよぼすための協力体制をつよめようとしたのである。市域村々では、十七年の連合村となってから、この連合町村に一名の勧業委員を公選している。彼らの仕事は「農商工事業ノ拡張、物産ノ改良・蕃殖ヲ図ル」(明治十七年「認可書綴込」市史編さん室)ことであり、具体的には、県令・郡長の勧業上の諮問に答え、各町村の農工商の概況を報告する役割を担っている。