勧農と肥料

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これら勧業委員を通じて、埼玉県でおこなわれた実際の勧農策をみれば、すでに八年ころには馬耕簡易法の教師による受講希望者を募っており、また草稲媒助法の施術について草加宿で試験も行なっている。十一年には勧農局出版の農書要覧を無料で配布し、東京三田育種場における穀菜・種物の交換市への見学を希望している。この年九月には、県内でもはじめて浦和公園に勧業仮博物館を設け、県内の物産を陳列し、農業の改良に役立てようとした。この博物館への出品者六七三人、出品点数五七三三点、観客は三万四四八七人であったという。これより以後、各町村に対し、外国あるいは国内の勧業博覧会や共進会への出品がさかんに呼びかけられている。

 また、県では他府県より穀物・蔬菜および煙草・藍などの良質品種をとりよせ、県内各地で試作させており、その結果を広告して希望者には見物をすすめ、種子の交換を奨励している。市域村々ではこの当時、西方村の山崎新左衛門が愛媛県の稲種である「正奈良」を、越ヶ谷の第二区事務所では同じ愛媛県の「大奈良」を試作している。このほか榎本熊が外国産の小麦種「大赤・薄赤」を、また瓦曾根村の中村彦左衛門が神奈川県産の落花生を試作していた。

 肥料もこの時期より、北海道から開拓使・埼玉県庁を通じて鯡(にしん)粕が購入されている。埼玉県勧業課の指示による導入である。これによれば明治十二年には鯡絞粕、正味二四九三貫目が購入され、代金四五三円余が県庁あて支払われている。その詳細は第31表のようである。かつての第二区の副区長クラス五名が購入者となっているが、個人の消費ではなく、第二区村々の使用肥料であった。北海道より蒲生村中島幸七河岸までの運賃および諸雑費が支出されている。十三年も同様であり、肥料はこれを契機に北海道から導入されるようになったが、やがて区戸長という行政機関の手をはなれて、肥料商にうけつがれていったようである。明治十七年の上間久里連合村々における肥料の購入状況をみると、第32表のようである。北海道の鯡粕のほか銚子から鰯粕・干鰯などの金肥も導入されていたが、いずれも越ヶ谷宿ないし粕壁宿経由である。両宿の肥料商からであったと思われる。いずれにしても、この時期の農政は政府・県庁からの天下り的な啓蒙的段階であったのである。

第31表 旧第2区村々の開拓使鯡粕購入表(明治12年)
購入者 鯡粕量 金額
円 銭
野口八郎左衛門(七左衛門) 275貫100目 49.70
井出庸造( 〃 ) 226貫600目 40.954
中村賢之助(大間野) 23俵 114.318
中村彦左衛門(瓦曾根) 10俵 50.046
原田平治(長島) 1,160貫700目 209.70
合計 93俵 470.219
正味 2,493貫200目 453.309

明治12「開拓使鯡粕買取候書類」井出家文書

第32表 上間久里連合村々肥料消費高表(明治17年)
肥料名 消費高 平年 産地 仕入先
鰯〆粕 7,700貫 7,600貫 千葉・銚子 越ヶ谷駅
乾鰯 960貫 890貫
鯡〆粕 320貫 410貫 北海道
大豆 152石 142石
蚕豆 8,400貫 7,300貫

明治19年「発議書類」市史編さん室