農談会の開設

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明治十四年に農商務省が設置されてからは、政府においても従来の欧米模倣の政策から、日本固有の小農を中心とする産業の育成にも努力するようになる。これにともない、農村内部の新しい動きをとり上げ、普及するための基礎作業としての共進会の開催や、農談会の開設が全国的にみられるようになってくる。市域村々で最初に開かれるのは、全国的動向よりやや遅れ明治十九年である。この年、越ヶ谷駅では衛生勧業会が開かれている。翌二十年三月増林地区で開かれた勧業会の模様(「埼玉県報」第六三号)をみると、

  南埼玉郡増森村連合部内ニ於テハ、学事ノ不振ヲ憂ヒ、且ツ農事ノ改良ヲ計ランガ為メ、増森・増林・中島ノ三村人民相謀リ、教育農談会ヲ設置シ、自今毎月便宜一回ツヽ開会スル事ニ決シ、本月十三日ヲ以テ、増林学校ヲ会場トシ其発会式ヲ挙行セリ。会者無慮百廿余名ニシテ、各自実施スル所ノ耕耘法、或ハ肥料ノ製造法及効用、又ハ子弟学費ノ蓄積法等ノ設ヲ呈出シテ、互ニ智識ヲ交換シタリ。尚、将来ニ向ツテ頗ル有益ノ企ナリ。

正式には教育農談会であり、教育費金の貯金法に関する意見交換も行われたが、耕耘法、肥料製造・使用についての実用的な知識の交換にもまた意味があったのである。この問題について一二〇名余の村びとが参加しえた背景に、時代の風潮をよみとることができよう。