営業の種類

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商品生産の拡大は、他方では村々に一層の貨幣経済の浸透をもたらす。生産品の売買やこれにともなう付随した商売が、村落内に成立してくる。市域が日光街道の宿駅と周辺村であるという流通上の立地条件が、この傾向をさらにうながす。越ヶ谷宿と周辺村との変化は、対照してみるべきであるが、ここでは村落内の様子を上間久里連合村を例にみておこう。

 第35表は明治十九年当時の、村落内の諸営業と営業人および営業高である。この村の総戸数は三八二戸、このうち一一一戸が営業にたずさわっているので、比率でいえば約三割の農家は何らかの営業をいとなんだことになる。もっとも一人で二種の営業を兼ねたものも四人いるので、比率は若干減少する。

第35表 上間久里連合村々の諸営業
営業種目 人数 営業高
(1人平均)
営業種目 人数 営業高
酒糀小売商 1 1,215 古道具商 1 57
藍玉小売商 1 920 翫物卸商 3 53.98
酒類荒物商 1 212.10 鶏卵商 1 51.90
炭小売商 1 210.40 箱製造職 21 49.92
穀物商 3 161.61 木屋商 4 48.33
機製造職 1 157 飲食店 4 42.45
蒟蒻卸売 1 155 魚類小売商 2 40
質屋 3 114.86 豆腐小売商 3 38.94
葉藍仲買商 1 130 足袋荒物商 1 35.03
機織職 2 154.10 棕梠箒製造商 1 35
穀物塩煎餅小売 2 110.50 篩造商 1 34.64
木屋酒類荒物小売 1 109 石炭油商 1 32
穀物小売商 3 104.26 紙小売商 1 30.50
油小売商 1 102.50 傘製造職 4 26.24
油屋商 1 97.50 塩煎餅小売商 21 18.56
棕梠箒小売商 2 84.47 荒物鶏卵商 1 18.50
洋物小売商 1 83.10 荒物小売商 3 16.66
鳥小売商 1 81 鳥仲買商 1 15.10
小間物小売商 1 79 漬物小売商 1 15
鍛冶職 1 69.48 曲物職 1 13.65
建具職 1 65 樽製造職 2 10.85
塩煎餅荒物小売 2 58.12 塩煎餅菓子商 1 4.52

(明治19年)

「上間久里村連合営業高書上」越谷市史(五)143ページ

 表によれば、漬物小売商や飲食店が成立していることがわかる。すでに農村の自給体制が崩れていることを意味し、洋物小売商などは西洋製品の村落への流入という時代の反映でもある。年間営業高のもっとも大きな酒糀小売商は、当時の農村でもっとも人気のあった嗜好品を商うものであり、藍玉・葉藍の売買は、商品生産として急速に展開したものだけに収入も多くなっている。穀物商は水田地帯であるだけに生産米穀の集荷移出を担当し、穀物小売は村々の購買者に売りわたすものであり、農村でありながらすでに穀物の需要者を生み出していたことを示している。これらはいずれも営業高が多く、当時の活発な需供関係をものがたっている。

 機製造職や機織職の収入が多いのも、市域北部の村々に織物がさかんであったことと関係しよう。ただし、この連合村では三人がたずさわったにすぎない。人数でもっとも多いのは箱製造職と塩煎餅小売商の、おのおの二一人である。明治八年の箱生産は、北川崎村、向畑村で一二万余個みられたのであるが、実際には隣の上間久里連合となる村々でも生産されていたわけである。のち勧業博覧会に「薬箪笥」を出品した大里村の下田長次郎は、箱製造の創業は天保五年(一八三四)二月であるという。すでに当時より五二年前より、この地で製造されはじめていたのである。塩煎餅小売とは草加煎餅の製造販売者のことであろう。年収は少ないが、すでにこの地の有名品となっていたことがうかがえる。