達磨と雛人形

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これら営業のなかに書上げられてはいないが、この連合村に特有な産物として張子達磨がある。明治八年当時、下間久里村一村で四万個の産額が書上げられていた。これが十九年になると二万六〇〇〇個に減少する。当時の生産者と製造量をみると、

   生産者    製造量    販売量    販売金額

  高橋大蔵    一万個    一万個   二四〇〇円

  中村勇太郎 五〇〇〇個  五〇〇〇個   一二〇〇円

  松崎武雄  五〇〇〇個  五〇〇〇個   一二〇〇円

  松崎仙吉  三〇〇〇個  三〇〇〇個    七二〇円

  安藤次郎  二〇〇〇個  二〇〇〇個    四八〇円

  上原春吉  一〇〇〇個  一〇〇〇個    二四〇円

となっている。農閑期の十二月より二月にいたる三ヵ月間の副産物として、江戸時代末期よりすでに製造されていたという(越谷市史(五)一一二頁)。まったく「農閑期利用ノ郷土副産物」なのである。これらは「中仙道熊谷宿及び上野国館林町に輸出」(武蔵国郡村誌)されている。

達磨

 張子達磨のほか、地域の特有な土産品として雛人形がある。明治八年には越ヶ谷宿で二万余個が生産されていた。当時の雛人形職は針ヶ谷岩吉、小野嘉七、会田市右衛門、会田銀之助、岡田藤兵衛、折原宇之松、会田儀兵衛ら七人と、造花職は鈴木長次郎であった。このほか小沢仙之助、会田与市、中村卯右衛門、青木文吉らも一時、雛職にたずさわっている。明治十四年当時も生産量はほぼ変っていない。これらは茨城県水戸や栃木県宇都宮、その他所々へ輸出されている。達磨、雛人形いずれもが、生産量の減少ないし停滞がみられるが、文明開化の当時であったため、好みも洋風化し需要が減退したためと思われる(越ヶ谷雛は一〇三七頁参照)。

越ヶ谷産出の練雛

 以上の営業者のほか、村落にはさらに諸種の職人が存在した。十年代に市域にみられる職人は、杣職、土方職、木挽職、畳職、大工職、萱屋根葺職、植木職、綿打職、形付職、髪結職などのほか、籠職、箒職、桶職、庭造職、粉挽職などがあった。