葛西用水路普通水利組合の成立

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越谷地域の用水は、古利根川通り葛西用水系と、元荒川通り末田・須賀両用水系とに大きく分けることができる。このうち葛西用水は、北埼玉郡川俣の利根川に源を発し、埼玉東部の三郡と東京府下の二郡、およそ一〇ヵ領の地域にわたり、その灌漑反別一万余町歩、産米年額二〇万石に及んでいた。

 江戸時代、このような主要幹線の用水管理は、幕府の管掌に置かれ、藻刈その他定式自普請を除いては、「皆入用普請」あるいは「入用普請」と称され、施工費の全額もしくはその一部が幕府の入用金で賄われた。たとえば文政十二年(一八二九)四月に施工された、葛西用水筋瓦曾根溜井の石堰修復は、幕府普請役人により全額幕府の入用金で行われている。また安政四年(一八五七)三月、同じく瓦曾根溜井廻り松圦伏替の普請には、瓦曾根溜井七ヵ領組合の百姓役(組合負担)で施工されたが、材料費金二一両三分と永五文五分が幕府の補助によるものであった。

 慶応三年(一八六七)十二月、徳川幕府は大政を朝廷に奉還し、ここに国政は新政府に移されたが、用水路普請などに対する施策は、幕政当時の慣行がそのまま継承された。この間用水管理は明治二年九月、小菅県・浦和県その他各藩の分割所管に移されたが、明治四年の廃藩置県後は埼玉県に統合され、埼玉県の所管になった。

 五年、葛西用水筋松伏溜井内増林関枠の伏替普請が施工されたが、総工費金三三〇九両余のうち、三分の二官費支給という先規慣例にもとづき、金一九五七両余が国庫支出、一三五二両三分余が松伏溜井七ヵ領組合の百姓役によって施工された。しかし翌六年、杁樋等の工費は民費負担によるとの大蔵省布達が発せられ、民費普請の原則が打出された。ただし民費負担の早期移行が困難な場所に限り、明治八年から同十四年までの七ヵ年は、とくに官費支給の特例が認められた。したがって明治十五年に施工された松伏溜井内増林関枠の伏替工事費、金三五八〇円余のうち、金六四六円余が国庫支弁となった。その後構造物の大工事、例えば二十六年度の元圦樋管工事に対して埼玉県からの地方税補助はあったが、国庫支弁は十五年を最後に打切られている。

 この先、葛西用水組合では官費打切り通告に対し、民費の調達法やその支出法を定める必要に迫られ、明治十三年四月、連合集会を結成した。この協議集会は四つの連合集会に分かれ、その議員は北葛飾郡一八名、南埼玉郡一一名、南葛飾郡二名、南足立・北足立両郡各一名、計三二名で構成された。そしてこれら議員はいずれも有力な地主層の代表で占められた。このうち四つの連合集会の内訳は、第36表のごとくであるが、下流四ヵ領は四連合集会のすべてに関係し、その負担金も下流地域ほど重くなっている。なお連合協議会費の調達は、従来の高割合から灌水反別(地価)の賦課方式に改められたのが特徴といえよう。

第36表 明治13年葛西用水連合集会
連合別 町村数 旧高 反別 地価
万円余
第1連合 八甫村外2宿226村(8ヵ領) 98,202 10,411 618
第2連合 中川崎村外1宿207村(7ヵ領半) 85,335 9,237 447
第3連合 松伏村外182村(7ヵ領) 70,696 7,519 447
第4連合 瓦曾根村外74村(4ヵ領) 30,923 3,601 225

 ついで明治十七年二月、葛西用水路連合集会の規則が改められ、議員数も三〇名に定められたが、同年三月葛西用水路に関する事務は、北・中葛飾郡長の取扱いから南埼玉郡長の所管に移された。さらに翌十八年三月、水利土功会規則の発布により、連合集会が廃止され、改めて葛西用水路水利土功会が発足した。このときの組織は、四連合集会組織がそのまま第四部会に移されて運営された。また議員は北葛飾郡八名、南埼玉郡四名、南足立・北足立・南葛飾の各郡各一名、計一五名の構成であった。続いて明治三十年四月、この先二十三年の法律で示された条項にもとづき、葛西用水路水利土功会は、組合会議の規約を設定、ここに葛西用水路普通水利組合が発足することになった。この組合会議の特色は、従来会議の評決やその管理は、郡長の所管であったが、組合規約では会議に関する一切は選挙で選ばれた議長が総理することになっているので、郡長の権限は多少制約をみ、用益者・費用負担者の発言が強化されていった。