明治三年の大蔵省布達により、用悪水路における橋梁・圦樋類の官費支出は打切られることになったが、明治八年より七ヵ年間、普請箇所を大・中・小に区分し、従前の通り官費普請が据置かれる特例が認められた。これは用悪水組合の抵抗を緩和するとともに民費負担切替準備の措置であったが、関係組合はこの間に民費切替えの方途を講じなければならなかった。すでに葛西用水は明治十三年に水利土功会を設置し、民費負担に対応する方途を講じていたが、元荒川筋末田・須賀溜井に源を発する末田大用水、ならびに須賀堀用水は、明治二十年四月に新しい組合規約を設けて水利土功会を発足させた。また葛西用水系のうち八条用水と四ヶ村用水が同年六月、さらに千間堀悪水路が同年十月にそれぞれ水利土功会を組織している。
ついでこれら土功会は、規約の改正で普通水利組合の名称に改められていったが、明治三十年の葛西用水路普通水利組合を手はじめに、同三十五年には須賀堀用水と末田大用水が、三十六年には千間堀悪水路がそれぞれ普通水利組合になったように、すべて水利土功会は普通水利組合に改組された。これら水利組合は、その後規約の改正や規約の充実、あるいは組合の離合や幾多の争論を経ながらも長期にわたってその機能を発揮し、農業水利に大きな役割を果してきた。だが昭和二十四年六月、土地改良法ならびに土地改良法施行法が公布されるに及び、この法令にもとづき昭和二十七年、葛西用水路普通水利組合をはじめ、大落堀悪水路普通水利組合、元荒川普通水利組合などがそれぞれ土地改良区に組織され今日に至っている。