水利の争論

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千間堀は南埼玉郡豊春村に源を発し、武里・川通・大袋・桜井・新方・増林の諸村を貫流して古利根川に流下する悪水幹線であったが、江戸時代から用排水路として岩槻領長宮村ほか三五ヶ村組合によって差配されてきた。すなわち上流岩槻領村々にとっては、重要な排水路であったが、下流大泊・上間久里・大枝などの諸村は、用水季節大泊村地先に土堰を築いて用水を取水する慣行になっていた。このため上流諸村は排水不良で田畑の水腐被害が絶えず、大泊村土堰に関しては、古来から紛争の元になっていた。ところが明治五年水路改正令にもとづく巡見役人の廻村を機会に、上流諸村は土堰の撤去を訴えたため再び争論となった。だが取調中扱人が立入り、和解が成立した。条件は、一、土堰を改め関枠を設置する。一、関枠設置の施工は、年々長宮村ほか一八ヵ村の負担で行う。一、関枠開閉の差配は、大泊村ほか二ヵ村の地元村が進退する。ただし出水のときは関板を速やかに取りはずすこと、などの示談取りきめであった。

 その後千間堀からの用水取入れは、明治三十九年に撤廃され、すべて須賀堀用水からの取水に切替えられている。ちなみに当時の桜井村の関係用悪水路は、須賀用水路・千間堀悪水路・元荒川悪水路・葛西用水路・須賀溜井・瓦曾根溜井などがあり、それぞれ灌水反別や地価割合によって受益者負担の組合費が徴収された。このように多くの用悪水に関係したのは、桜井村に限らずいずれの町村も同様であった。したがって場合によっては用悪水路維持に関する負担金をめぐって紛争がおきることも少なくなかった。ことに民費切替え時にあたっては、その負担額の軽減をねらい、多くの紛争がおこされた。

 たとえば明治十年十二月、末田大用水路二三ヵ村組合のうち、末田村以下一五ヵ村は、高曾根村以下八ヵ村を相手に、負担金差拒みを不当として訴訟をおこしている。訴訟方は負担金を高割合によって平等に割当てることを主張したが、相手方は用水不便を理由にこの出金を滞らせていた。訴訟の結果は不明ながら、のち高曾根村以下八ヵ村は独自の組合を設け、末田大用水組合を離脱している。