学区改正と学務委員

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十一年七月に制定公布された三新法のうち、郡区町村編制法は十二年三月に実施された。これによって行政区が廃されたため、区制に基礎を置いた「学制」期の学区は実情にそわなくなり、十二年の「教育令」の公布によって、従来の学区は解体された。そして、この時点で設置されていた県内小学校数六九五を以って、そのまま学区とした。その後十三年十二月の「改正教育令」が公布されると、新たに学区画定の必要がさけばれ、十四年十月全県三六四学区が画定した。

 市域の状況をみると、このとき、南埼玉郡下は六一学区に画定され、市域は別図に掲げたように第四学区から第二三学区(除一九~二一学区)に編入された。そして、この学区内には第39表のような学校があった。

明治14年10月の市域の学区
第39表 明治14年の学区と学校
学区番号 学校名
4 (青柳学校)
5 千疋学校,別府学校,(柿ノ木学校)
6 培根学校
7 増森学校
8 小林学校,進文学校
9 蒲生学校
10 育幼学校
11 西新井学校,啓明学校
12 越谷学校
13 増林学校
14 平方学校,船渡学校,向畑学校
15 袋山学校
16 大沢学校
17 荻島学校
18 (高曾根学校)
22 (大戸学校),(長宮学校)
23 大竹学校

(明治15年)

県教育史第3巻参照.( )は現在市域外学校

 ところが十七年に町村の連合がなされ、連合戸長役場制が実施されると、従来の学区は連合戸長役場管轄区域と合致するものはほとんどなくなってしまい、教育行政の執行上きわめて不便になった。そのため、十八年十月には、連合戸長役場管轄区域に合致させるべく、学区の改正が行われた(次頁の図参照)。

明治17年の町村連合と同18年の改正学区

 一方区制の廃止は、区制にもとづいて置かれた学区取締の廃止を余儀なくさせ、これに代るものとして、郡役所に学務担当吏員が置かれた。また、県下に小学訓導講習所制度による講習所が設けられることとなり、南埼玉郡でも十二年五月、南埼玉郡小学訓導講習所仮規程が布達された。これは郡内を八連合に分けて、教員が集会し教育内容や授業一般について協議させるものであった。

 市域についてみると、まず、越谷学校に講習所が置かれ、ここには、西新井・越巻・育幼・蒲生・増森・小林・進文・培根の各学校の教員が集まり、また大沢学校講習所連合では、平方・船渡・荻島・大竹・啓明・増林・袋山の各学校の教員が大沢学校に集まった(明治十二年「管下令達」県立文書館蔵)。なお、十二年八月から一ヵ年の間「小学巡回訓導」が各郡一~二名置かれたこともあったが、効果が望めず廃された。

 以上のように学区取締の廃止によって教育行政の後退を防ぐべく各種の対策が考えられたが、十二年九月の「教育令」では、学区内町村人民の選挙によって「学務委員」が新たに選ばれることになった。学務委員は、これまでの学区取締の仕事であった児童の就学、学校の設置保護などを担任するものであった(第十二条)。

 十三年の「改正教育令」になると、学務委員は定員の三倍の候補者を選出し、その中から県が任命するように改められた。また、候補者の中には戸長が必ず加えられた。こんなところにも国や県の教育に対する干渉権が強化されたことが窺える。

 しかし、十八年の教育令の再改正では、教育費節減のため、学務委員は廃止され、学務委員の仕事は全て戸長に引き継がれた。

 市域の学務委員については詳細は不明であるが、十四年七月頃、県に提出された書類から市域の学務委員の名まえを拾ってみると、

 袋山学校部内 中島公右衛門  平方学校部内 中村与次

 大沢学校部内 広瀬弥七    増森学校部内 森田新兵衛

 越谷学校部内 山本恭之助

の以上五名の名まえがみえる(「学務部、教員及職員」県立文書館蔵)。