学校設立と維持

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「教育令」の施行によって学校の設立は各町村人民の自由に任かされた(第九条)。そこで小規模校や設備不充分な私立学校などの設立がみられた。しかし、「改正教育令」になると、私立学校の設立を規制したため、多くの私立学校が姿を消した。市域でも越ヶ谷宿内の愛日学校が十四年十月、幼導学校が同年十一月、大沢町の終身学校が同年十一月、それぞれ廃止された。

 一方、公立学校においても小規模校の統合が進められた。例えば、十九年四月には、西方村の進文学校、見田方村の培根学校、千疋村の千疋学校が統合され、東方村に東方学校が誕生した。また、十四年六月、越巻村の越巻学校が、七左衛門村の育幼学校に併合されたが、十九年六月には四丁野村の啓明学校に統合され、四丁野学校と称された。

 さて、学校維持であるが、三新法の一つ、地方税規則の公布により、十二年以後の地方財政は大きく転換した。教育費についても、文部省補助金、地方税、町村協議費、授業料収入等によってまかなわれることになった。十四年、それまで町村から教育費ねん出のさそい水としての役割を果して来た文部省補助金も、形式的なものとなったので廃止された。そこで、学校維持費の中心は町村協議費となった。ところが、これまで見て来たように、単独町村で学校を設立しているものはごく稀で、ほとんどが数町村からなる学校組合が設立母体であった。そのため、維持費は関係町村の協議によって拠出してこれにあてた。

 ことに、十七年の連合戸長役場制が実施された当座は、一学区が二~三の連合戸長役場にまたがるものが多かったので、わざわざそのための連合村会を組織しなければならなかった。例えば、第一四学区内にあった船渡学校は、北川崎村連合戸長役場所轄の船渡村と上間久里村連合戸長役場所轄の大泊村の二村で船渡学校組合を結成し、各村から二名の村会議員を選出し、協議した。ここで、十八年度の船渡学校連合村会決議書によって船渡学校連合決算書をみると次のとおりであった。

第40表 明治18年度第14学区船渡学校連合決算書
収入総額 円 銭
322.06
村費 222.26 地価割賦課金
177円80銭8厘
戸別割賦課金
44円45銭2厘
地方税下渡金 50.80
授業料雑収入 42.00
支出総額 円 銭
322.06
会議費 2.06 連合村会
学校費 320.00 俸給 216円
賞与 3円
雇給 9円
旅費 10円
生徒費 5円
借家料 9円
講習費 15円
定期試験費 7円
営繕その他 47円

 すなわち、収入総額三二二円六銭は、学区内総地価に賦課した地価割賦課金と同じく学区内総戸別に賦課した戸別割賦課金を中心に県からの地方税下渡金と授業料等があった。

 支出面では、全額の六七%にあたる一一六円が教員の俸給であり、このほか教員の賞与、雇給なども加わると七〇%が人件費である。なお、授業料の徴収については、十八年十二月、県が示した町村立小学校の授業料に関する達(乙第百五十三号)によると、生徒一人当り一ヶ月三拾銭以下五銭以上で、貧困の状況により等差を設けるものとした。また、おもしろいのは、土地の情況によっては「穀物、繭、糸、綿、織物、鶏卵、薪、炭等ヲ以テ時価エ析算シ徴収スルモ妨ケナキモノトス」と定められていることで、これは不況下にある農山村の生徒就学を少しでも伸ばそうとする苦肉の策であった。

 市域の例をみると、十九年二月、県の許可を得た上間久里村連合会の大泊学校の授業料は、

  一等廿銭、二等拾八銭、三等拾五銭、四等拾弐銭、五等拾銭、六等八銭、七等六銭、八等五銭

の八段階あり、授業料の等級は戸長役場で指定し、毎月二十五日に学校へ納入することになっていた。ただし、満一ヶ月生徒が休業するかあるいは学校が休校すると授業料は徴収しなかった。