「学制」期の教育内容が、西欧のカリキュラムを模したものであったため、これに対する反発もかなりあった。さらに十二年「教育聖旨」の公布は、従来の教育方針を改め、皇国思想に移行していった。そこで、十二年の「教育令」では、その第二条に「小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所ニシテ、其学科ヲ読書・習字・算術・地理・歴史・修身等ノ初歩トス、土地ノ情況ニ随ヒテ罸画唱歌体操等ヲ加ヘ、又物理生物等ノ大意ヲ加フ、殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クベシ」と定めただけの極めて簡単なもので、あとは地方の自主的編成にゆだねられた。
そこで、埼玉県では十二年十一月「埼玉県公立小学教則」を制定した。これによると、小学校の課程を小学教科(四年)と高等教科(三年)に分け、小学教科の一年目のみ初級とし、他は全て半年ごとに一級進級とした。
しかし、「改正教育令」では、十四年に文部省が「小学校教則綱領」を制定し、これに各府県が準拠したが、おもな点は、小学校の課程を初等科三年(六級)、中等科三年(六級)、高等科二年(四級)としたこと、修身科を各教科のトップに置いたことなどであった。しかし、この改正では、かえって教育内容が多過ぎたため、十八年六月、小学校教則は一部改正された。
教科書についても、「教育令」期の当初はきわめて自由であったが、十三年に文部省に教科書取調係が置かれ、「調査済教科書」を公表したためめ、実質的な教科書検定が始まった。そして、内容も従来の読物風から近代教科書としての性格を整え、府県が同一の教科書を使うことになり、本県でも川島梅坪を中心に編集出版された「埼玉県地誌略」などが使用された。