明治十九年四月、他の学校令とともに制定された小学校令は、初代文部大臣となった森有礼によって作られたもので、強い国家主義思想によって貫かれており、以後わが国近代学校制度の基本体系を確立したと言えよう。
この小学校令では、小学校を尋常小学校と高等小学校との二種類とし、特に尋常小学校四ヵ年を就学義務年限とした。また、従来、町村費でまかなって来た学校維持費を、小学校令では授業料と寄付金を主要財源とし、町村費は不足分を補うものとした。
市域においても、小学校令の公布とともに、従来の小学校が尋常小学校に改められた。例えば、砂原村連合戸長役場管内の七ヵ村組合立荻島学校は、同年四月に尋常小学校荻島学校と改められた。このほかの学校についても多少の時間を要しながらも校称の変更は進んだ。
一方、学校維持費は児童の授業料がその主要財源となったが、これは非常に大きな負担となり、困窮にあえぐ農民は「今般家内人少ニ付、農業為手伝度、因ツテ退校仕度候」と申し出て児童を中途退学させた。これに対し、戸長役場(上間久里村)では、各地区ごとに父兄を召集し、就学を促した。