町村制の実施と学区

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明治二十一年四月に公布された市制・町村制は、従来の連合戸長役場管轄区域を基盤として大規模な町村合併を行い、これに続く府県制・郡制とともにわが国の地方制度を系統的に整理統一しようとするものであった。

 したがって同二十二年四月、これが実施されると教育界にも改革に伴う変化が生じた。すなわち、新たに誕生した新町村は県下で三七一町村となった。市域では第三章第九節(一七四頁以下)でみるごとく越ヶ谷町と大沢町の一組合と大相模・桜井・大袋・荻島・蒲生・出羽・増林・新方・川柳の九村が誕生した。そして、これら新町村の誕生の直後四月四日には、新町村を一学区とする学区改正が達せられた。

 これによって、各村には新村名を冠した尋常小学校の成立をみたわけである。このうち越ヶ谷町と大沢町には組合立の共和学校が設立され、第一教室が越ヶ谷町に、第二教室が大沢町に置かれていた。

 また、町村制のもとでは、国の財政負担を軽減するため国政事務の一部を地方に委任した。教育も警察と並んで国政委任事務として地方自治体におろされた。しかし、教育関係事務のすべてを委任したのではなく、教育の目的、内容といった肝心な部分を除き、もっぱら学校の設置・維持・あるいは就学事務といった外縁的な部分であった。したがって町村制施行後の教育行政は国の厳重な監督のもとに行政機構の末端として教育の国政委任事務の遂行が基本的課題となった。

 そして、新しい動きに対して、従来の小学校令では対処しきれないため、二十三年十月小学校令が改正された。

 この改正では、ドイツの教育制度を参考とし、また前年に欽定憲法である大日本帝国憲法が制定公布されたという時代的背景もあり、単なる改正にとどまらず、教育の国家統制が進み、より一層国家主義教育を強調したものとなった。例えば、道徳教育の重視、学務委員の復活、郡視学の設置などがあげられよう。このほかおもな改正点は技術教育の重視、尋常高等小学校の設置許可、就学義務年限の短縮(三年でもよい)などである。

 本県においては、この改正小学校令の施行が遅れ、二十五年四月となった。