越ヶ谷分署の誕生

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この出張所・屯所の名称も、十年一月二十六日内務省達により警察署・分署と改称されることになった。これにもとづいて本県では、同年二月五日、従来の警察出張所を警察署、同屯所を分署と改称した。かくて草加出張所は草加警察署、越ヶ谷屯所は草加警察署越ヶ谷分署となった。そしてこれら警察署・分署には警部・巡査が配置され、各署長には原則として警部をあてることにしたが、警部の定員が少く全部を充足することができなかったので、なかには一等巡査をして事務取扱とする場合もあった。しかし、十四年には警部補の階級が新設され、分署長には警部補が充てられた。当時越ヶ谷分署の警察官定員は六人で一ヶ宿三二ヵ村を管轄した。この巡査の中には旧士族出身者が含まれており、さきの捕亡附属の時にはすべて現地の人であったのが、次第に士族出身者に変っていく状態をあらわしている。

 越ヶ谷分署成立と同時に庁舎新築の議がおこり、十年九月に工事請負人がきまり、同十二月に着工して翌十一年一月十日に落成した。その建坪は九坪で新築費は一一〇円五九銭七厘であったが、費用はすべて管内町村の献金と残りは賦課金で賄われた。なお、敷地は民有借地一八坪であり、その位置は従前の区務所に隣接した大沢橋際の地所であった。

 ついで十五年六月、埼玉県は警察運営の合理化のため、警察署・分署の統合整理を行なった。それまで草加警察署管内には、越ヶ谷分署・吉川分署・鳩ヶ谷分署・戸ヶ崎分署・松伏分署、幸手警察署管内には粕壁分署・杉戸分署・栗橋分署・麦倉分署・久喜分署・加須分署・西宝珠花分署というごとく、多くの分署が設けられていたが、この改正により越谷周辺では第43表のごとく統合整理が行われ、埼玉県内では一五警察署一四分署に定められた。なおこのとき廃止された分署は交番所と改称されたが、なかには浦和警察署に属した岩槻分署が警察署に昇格し、草加警察署に属した鳩ヶ谷分署は浦和警察署に移され、鳩ヶ谷分署として存続したところもあった。

第43表 越谷周辺警察署・分署(明治15年)
警察署 分署
浦和警察署 同署・鳩ヶ谷分署
草加警察署 同署・越ヶ谷分署
岩槻警察署 同署・粕壁分署
幸手警察署 同署・杉戸分署
桶川警察署 同署・鴻巣分署

 この機構改正にともない各警察署や分署の管轄区域が変更されたが、越ヶ谷分署当時の管轄区域とその戸数、人口は次のごとくである。

 管轄区域

南埼玉郡―越ヶ谷宿 瓦曾根村 登戸村 蒲生村 西方村 伊原村 東方村 見田方村 南百村 中島村 増森村 大道村 三野宮村 恩間新田 東小林村 花田村 大杉村 大松村 北川崎村 向畑村 船渡村 大吉村 上間久里村 下間久里村 大里村 弥十郎村 大沢町 袋山村 大林村 恩間村 大竹村 大房村 南荻島村 砂原村 北後谷村 西新井村 神明下村 四丁野村 谷中村 長島村 越巻村 七左衛門村 大間野村

北葛飾郡―松伏村 上赤岩村 下赤岩村 拾壱軒村 田島村 上内川村 下内川村 八子新田 鍋小路村 南広島村 川藤村 須賀村 会野谷村 関新田村 吉屋村 半割村 加藤村 鹿見塚村 飯島村 中井村 上笹塚村 関村 川野村 川富村 大川戸村

中葛飾郡―金杉村

    戸数 六〇〇三戸

    人口 三万六九五九人

 右のとおり管轄区域の拡大に伴い警察署庁舎も狭隘となったので、越ヶ谷宿はじめ地元有志の出金により庁舎が増築されることになった。十五年九月に出願され、十月着工、十一月七日に落成した。増築部分は次図のとおり一〇坪五合で従前の建物と合わせると二〇坪となった。その建築費総額は二八四円四五銭九厘であったが、この費用はすべて管内宿村の出金であり、大部分の宿村では一部有力者の献金、いくつかの村ではその分担額を民費に賦課したものもあったとみられる。

従前越ヶ谷分署<br>有形チ間口弐間奥行四間半 新規建継キ惣拾坪五合但シ三間三間半<br>内三坪五合革下シ

 明治二十二年の町村制施行に伴う町村合併により警察署管轄区域にも変更があり、越ヶ谷分署の管轄区域は、南埼玉郡越ヶ谷町、大沢町、蒲生村、出羽村、増林村、新方村、大相模村、桜井村、大袋村、荻島村、北葛飾郡松伏領村の一一ヵ町村となった。なお、越ヶ谷分署の警察官は警部一名、巡査一七名、諸雇一名で計一九名であった。

越ヶ谷警察署(昭和初期)