消防組の始まり

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越ヶ谷宿では明治期に焼失戸数一〇〇戸以上の大火が七年十月と三十二年二月の二回もあり、その被害は数百戸に及ぶものであった。しかし明治初期には「消防は自警的なもの」の風習が強く、これという消防組織もなく宿民は手桶水鉄砲等をもって消火に努めるという程度であった。明治十九年十二月埼玉県では「消防組編成規則」を定めて一町村一組合の消防組編成を奨励し、所轄警察署長の監督下においた。この規則によって越谷地区では越ヶ谷・桜井・蒲生・出羽・増林・荻島・新方・川柳の各地区に近代的消防組織が初めて誕生した。

 その一組織である平方村消防組合は一番から三番の三組に分かれ、それぞれの組に正副頭取がおかれ、三番組の消防夫は総員六六人で組織され、次の役割および器械を備えて消火活動に当った。

 雲竜水 一個一〇人 纏 一個二人 旗 一個一人 刺又 一個二人 梯子 一個二人 鳶口 一〇個一〇人 玄蕃及手桶 七個一一人 高張提灯 一個一人 消札 一個一人

 消防組の服装は法被股引で、ケシコ頭巾手甲で足袋草鞋をはいた。消防の費用はすべて村内戸別割で賄われ、組員の負傷および死亡に対する療治料あるいは弔慰金は村内協議費で支出することと定められた。

消防法被